週末の拡張=世界の拡張

コンビニに行くように飛行機に乗って遠いどこかへ行く。年々最低限の自分の荷物が増えていく。化粧品の量が増えて服も嵩張るようになって、もっと気楽に何も考えず赴きたいのに、見栄とか年相応でいなきゃという気持ちが邪魔をする。それでもふと何もない週末に色をつけなきゃやっていけない。芸術に浸って、自分が自分じゃなくても済む場所に逃げ込みたい。人は好きだけど、人にわたしを知られたくはない。誰も知らないわたしで、何でもないわたしを見出したい。

 

人の多い都市に行って、誰に約束をしたわけでもないのに知人とすれ違う。久しぶりだし、顔の下半分が隠れているということもあって、何も言わずにやり過ごす。ここで「ヒラタさんですよね?お久しぶりです!」なんて言えるわたしだったら、そもそもこんな風に日常から逃げていない。それでも知ってる人の顔を見てホッとする自分もいる。完全に社会から切り離された逸れものになるのは望みではなく、自分で別離をしたという事実が重要だった。人に理解されない逃亡を肯定して共感してくれるひとは世にどれだけいるだろうか。リュックに詰め込んでいたのは一種の後ろめたさなのかもしれない。

 

銀座の伊東屋。上野の美術館。品川駅のかわいい時計に、地元じゃ買えないアクセサリー。うんちくを聞かされても全然世界は輝かないのに、それが人のためになるかのように話す人。文章や言葉は素敵なツールだけれど、それじゃ表現できないものも世にはあって、絵画を見ながら少し泣きそうになった。どんなに知った気になっていても他人は他人で、世界は世界だ。わたしが思うことも、こんな文章なんかじゃ伝わっていない。それなのに好んで読んでくれる人がいるから不思議だ。知らないところで全く違う解釈をされているのかもしれないけれど、それもそれでわたしの断片なのだと思う。醜くても汚くても、それも含めて私だ。

 

保安検査場の前で、今まさに遠くへ発とうとする人を見送る人がいる。それを横目に、わたしは足早にゲートを抜けていく。誰かと別れる時は決して後ろを振り向かないと決めている。振り向いて相手がこちらを見ていなかったら悲しく思ってしまう。そんな過保護に愛されたいわけでもないから、誰にも告げず、密かに大移動を行う。

 

小さな女の子が離陸した瞬間に「世界ってこんなに大きかったんだね!」と叫んだ。それを聞いてわたしは「それ」を求めて今まで生きてきたような気がした。幼いこどもたちの方が世界のことを知ってるんだと思う。