リボンをかけて
28歳が終わる。
28歳を終える前にやって良かったことといえば、ロリィタファッションへの挑戦だと思う。
幼少期から着たかった、レースやフリル、リボンがあしらわれたドレス。私が憧れたのはお姫様やお嬢様ではなくロリィタそのもの。なんてことはない雑多な街の中で自分だけはブレないで好きを貫き通す、その姿が素敵だと思った。
もちろんBeforeロリィタさんの時代はシンプルな服を好んでいたし、Afterロリィタさんの今もそういった服はそういった服で機能美だと感じる。ただ、やはりどこか迷彩服というか、日常に溶け込むための服というか。布にトキメク瞬間は削がれてしまうところがあるとは思う。
そんなことで私を潤すのは無駄に無駄を重ね華美に華美を突き詰めたロリィタ服でした。
腕にまとわりついているリボンが解けたりするのが面倒だけれど、その面倒すら愛おしいもの。こうした格好をして自分の好きを全面に主張する時間がわたしにとっては必要なものなのでした。
好きなものを好きと主張するようになって、自分のなかで少しずつ何かが表出していくような感覚がある。恐らくそれは自分がいかに好ましくないものに対して労力を割いていたか、だ。
世間一般に好ましいといったら聞こえはいいかもしれない凡庸な服を選ぶこと。人の顔色を伺いながら返答を選ぶこと。行きたくないのに断るのが申し訳ないからという理由で出席した飲み会とか、自分が尽くすほど相手は尽くしてくれないなと思った友情関係。
無理していたことが昔より一層明確になった。普段怒らないくせに、思い出したら薄ら怒りが湧き上がるくらいには無駄なことをした!と嘆ける。
好きの反対は嫌いではなく無関心。その言葉はまさしく今のわたしを正確に見抜いているよう。無関心を貫いていたことこそ、わたしにとっては暗く、難しく、ときには憤りを感じられるようなものだった。
そんなだから、今の自分はある程度の物事を諦め、手放した。自分を大切にしてくれる人や物を大切にしたいし、そうじゃない人・物に自分の大切な感情を割かなくてもいい(割くべきではない、ではなく、割かなくてもいいという言い方が正しい)。失敗して悲しく思うこともあるかもしれないけれど、そのうち自然と分別がついていくだろう。
捨てるという行為をすれば自ずと拾う行為もしたくなる。人間はそういうふうにできているから、私が真に孤独になることはないと思うし、自分の気持ちに素直に生きられるだろう。
29歳はどんな歳になるかしら。
SEと私
リワークの担当看護師さんから薦められて三森みささんの「いいかげんに生きづらさを終わらせたい」という漫画を読んだ。内容は、身体感覚を優位にしたソマティックエクスペリエンス(通称SE)を使ってトラウマの治療を図るというもの。
なぜそんな漫画を薦められたかというと、私が浪人時期に味わった父親からのモラハラが、今現在トラウマになってしまっているのではないかと思ったからだそうだ。確かに複雑性PTSDの本を読んで「私もそうなのでは?」と思った。本人は大したことないと思うことでも、客観的に見たら十分トラウマになりうるのかもしれない。
わたしの鬱病はトラウマから起因するもので、ということはつまり、今いっぱい休んで元気になった(寛解した)と思ってもトラウマが悪さをして再び倒れてしまうのかもしれない。
そんな恐怖が私をSEへと導いた。
最近は月に1,2回SEのセッションを受けて、リワークに通う毎日。劇的に何か良くなりましたか?というとなんとも言えないし、人に教えたくなるほど特別な何かは感じていない。
ただ、今はなんとなく気持ちが安定するというか、気分の振り幅が少しマシになったような気がする。とはいってもセッションを受けたばかりの頃はいわゆる調整期間で、なんともなくても動けなくなったりする日が続いていた。そう考えると今の安定もまやかしの安定なのかもしれない。だからなんとも言えないけれど、少しずつ「大丈夫だ」の塊が大きくなりつつある気がする。
春に向けて、そろそろ就労を頑張らなきゃならない。頑張らなきゃというか、趣味のため、自分の興味を試すためにも働けるようにならなくちゃ困る。
気付けば2026年になって、あの頃苦しんでいた私から10年も経った。それでも私がまだ苦しんでいるのは、人生は断片的なものではなく地続きだから。過去の自分のことはもう許せる気がするし、恥ずかしいことも、その時はそうするしかなかったよねって受け入れられる。今の自分は?全肯定はできないけれど、最善の選択をし続けているとは思っている。
何もしないで布団に包まっていると、自分がダメになっていくのがわかるから、理由をつけて外に出なければいけない。人と会いたい。話がしたい。
まだ完全に良くはなっていないけれど、外の世界への興味関心が私を動かす原動力になっている。
会社を辞めて東京に来て、ただ自分の人生から逃げただけなんじゃないかと思っていたけれど、治療に向き合って足掻いて少しずつ前を向けていると思う。
恐れる必要はない。自分の人生だからちょっとの失敗もどうにかなるに決まってる。大したことはない平凡な人生だから、きっとどうにかなってしまう。
今はSEとリワークと、数種類の薬で、未来の自分のためにどうにかする時間なんだと思う。
「猫の瞳」
今年初めて書き溜めた文章を文学賞に応募するということをした。
当然大した結果にはならなかったのだけれど、1年の結果を評価されるというのは通知表をもらうみたいで快いものだなと感じた。
どこに行くでもない私の文章をデータの海の中に埋めているのも虚しい気がしたので、冒頭部分をここにおいて置こうと思う。
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窓際に座って日光を浴びる猫の瞳の美しいことが、私がこの世に生きていることの許しになっている気がする。
毎朝毎晩、彼の餌皿へ無機質にざらざらとキャットフードを注ぐことが、私にできる唯一の日常的な善行だ。正直私は毎度同じ時間に同じことをするのが苦手で、自分のご飯や睡眠、お風呂なんかは思い出すときにする程度。冷蔵庫の中に干からびた人参のようなものが転がっていたり、毛髪の根元部分が脂ぎっていたりするのなんかはザラにある話だ。そんな私が猫の世話を出来るのは、妙に正確な腹時計を持つ彼のおかげだ。
艶やかな黒毛に包まれた彼の名前はナスビという。名付けの親は私の恋人だった人。猫に野菜の名をつけるのは如何なものかと今なら思うけれど、冗談めかして「ナスビがいいんじゃないか」と発言した彼の唇が異様に綺麗だったから、なんとなく肯定してしまった。当のナスビは当たり前だけど茄子に興味は無いようで、茄子をバターで炒めたやつの上で踊る鰹節にばかり釘付けになる。ナスビを飼って1ヶ月ほどすると、彼の前足を丁寧に折りたたんで四角っぽく腰を下ろす香箱座りの姿がツヤツヤ光る太った茄子のようでなるほどと思った。ちなみに名付け親である元恋人とは、三年弱の交際を経たものの今や生存すら確認できない間柄となってしまった。
ナスビは大きく「なーーーん」と叫び私を呼ぶ。「なになに?」と顔を出すと何もなかったような顔をしてキッチンの方へ隠れていく。気まぐれな猫だこと。手癖でインスタグラムのストーリーズを確認して、友人が大層充実した毎日を送っていることを感じる。勝手にこっちが覗いているのに、マウントを取られたみたいな気持ちになってちょっと凹んでしまう。凹みがてら、しばし夢の中へ逃げ込む。そういう時に限って、高校時代好きだった人が私に振り向いてくれる夢を見る。高校卒業以降成人式でしか会っていないのに夢に見るなんて、自分で自分に引いてしまう。私ってば告白もしていないくせに未練たらたらなんだろうか?告白すらしていないから未練たらたらなんだろうか?私がこんな不毛な考え事にウンウン悩まされている間も、ナスビは黒々と丸く太った艶やかな身体を私の脇腹あたりに押し付け、暇を潰すみたいに目を瞑っている。
昼になると出勤が近づいて憂鬱になる。出勤とは言ってもしがないフリーターの私のその場限りの労働は、世間では責任感のない時給分の駒と思われているんだろう。久しぶりの母からの連絡でも「そんな不安定な働きなんかやめてきちんと就職しなさいよ」なんて小言を言われた。九時から十七時まで身なりを整えて机に座っていられるんだったら、私だって正社員として働きたい。ボーナスとか貰ってみたい。かつてバリキャリOLを夢見て買ったリクルートスーツは、今やクローゼットの奥の奥。ミシュランマンみたいにもこもこと幅を取るダウンに隠れて埃を被っているのだろう。
スマートフォンで音楽を再生する。私が今ハマっている「シオサイ」というバンドの最新アルバムだ。女性がボーカルをしているのだけれど、彼女のシャウトがまるで楽器みたいに綺麗に響く様が好きだ。日本語なのに上手く聞き取れないような、そんな歌い方だからこそ、下手に感情移入しなくて助かる。失恋したとか面接に落ちたとか感傷的な気分の時以外は極力フラットな気持ちでいたい。
準備をしなければいけないと、申し訳程度にパックをした顔でメイクポーチを漁ると、溢れたメイクブラシの先にナスビが戯れてくる。
「ナスビもお化粧したいの〜?」
瞳孔を少し開いたナスビがこちらを見て「なん」と返事をする。絶対に通じていないくせに返事だけは立派なんだから、と少し笑えてしまう。ブラシの毛が痛むから取り返す。遊んでもらえるのかと思ったのかナスビの尻尾がぶるんと動く。すかさずポーチの隅へブラシを隠して回避。今日はこのお決まりのちょっかいにイライラしないから比較的心の余裕がある。
パックを外して太腿に貼り付けながら顔を整える。肌色の液体を頬と鼻先、顎と額へポツポツ塗布して徐に指で塗り広げる。目の下のクマが隠れないけれど、今日はコンシーラーまで塗るのが面倒だから見ないふりをする。友人にもらったいつまでも無くならないシャネルのルースパウダーを顔面に満遍なくはたく。手癖で頬の辺りにチークを塗って、中指に擦り付けたアイシャドウをぐりぐりと瞼に擦り付ける。逆さ睫毛気味な睫毛をビューラーでグイグイと上向きに躾ける。「嘘泣き」みたいな名前がついたアイシャドウを下瞼に重ねて、控えめに生えている眉毛を誤魔化すみたいに眉毛を描く。こうした工程を経て、誰に見せるわけでもない私の顔が出来上がる。
「まあ、可愛い、可愛い」
暗示みたいに鏡の向こうの自分に言い聞かせる。昨日よりもちょっとそばかすが気になるような気がして、あれ、もうこの歳だと「しみ」と呼ぶのか?と思いながら、鏡を食卓とは名ばかりの折りたたみ式テーブルからカラーボックスの上へ戻す。横に並ぶ手のひらサイズのぬいぐるみが少し埃を被った様子だったけれど、払う時間も手間も惜しかったので見て見ぬふりをした。
スマートフォンを確認すると時刻は十二時三分。その日のやる気によってメイクにかかる時間が変わるから、時間の余裕によって昼ごはんの内容が変わる。今日は時間があるからインスタントラーメンに卵を乗っけたやつでも作って食べよう。ナスビは私が化粧をしている間に眠くなってしまったのか、私の右横、太腿に少し被さるような図々しいポジションで丸くなっていた。私を信頼しているからこその重みが嬉しい。嬉しいけれど永遠にそれを味わうわけにもいかないから「ごめんね〜」と一言かけながら脇に手を差し入れ、彼のお気に入りのテント型ベッドへ輸送する。このときに感じられる、猫の脇の湿気っぽいのが、ナスビが生きていることを実感させてくれる。移動させられたのが気に入らなかったのか、彼はベッドから飛び起きて私の足の周りを触れるか触れないかの距離感で付き纏う。
私は人ひとりが立つのが精一杯なキッチンに立ち、雪平鍋に水道水を目分量で入れ、二口コンロの手前側で火にかける。コンロの電池が少なくなっているらしく、存在感の薄いランプが赤く点灯していた。こういうのって点かないと存在に気づかない。単一の電池は目的がないと買わないから、帰りに買ってこなきゃいけない。少し面倒臭い。そもそもこのランプが今まさに点灯し始めたのか、ずっと前から点いていたのかわからないから、緊急性もわからない。なんてモヤモヤしていると雪平鍋の水面がふつふつと沸いてきた。今更お湯を沸かすのに蓋をするのを忘れていたことに気付く。
袋麺を開封する音は、ナスビには猫用おやつが発するそれだと知覚するようで、今日もシンクまで上がりこんで、あるはずもないおやつを探す。私はこうなる度に、モフモフで肉がどこにあるかわからないナスビの首根っこを掴み床へ落とす。以前その様を見ていた当時の恋人に「動物愛護団体が見ていたら虐待と言われかねない!」とすごい剣幕をして言われたことがある。私は有能な子を崖から突き落とす親ライオンと同じだと思い込んでいるので、それ以降も然るべき時に実施していた。ナスビはされた時だけ被害者面で手足を真っ直ぐに伸ばして固まる。床に綺麗に降り立ったのを見送ってから、沸騰したお湯に乾麺を入れラーメンの作成を試みる。郷に入っては郷に従え。
記載よりも少し早めに粉末スープと調味油、乾燥わかめを投入し、全体を軽く混ぜ合わせてから生卵を割り入れ、蓋をして卵の表面が白っぽくなるまで待つ。お店のラーメンも好きだけど、インスタントラーメンのチープでシンプルな味も私好みだから安上がりな女だ。猫舌だからなのか温かい食べものには興味がなくなるようで、ナスビは私のベッドの真ん中でアンモナイトになっていた。
時刻は十二時十五分。さっきまで自分に化粧を施していたテーブルに鍋敷き代わりの布巾を設置して鍋から豪快に頂くことにする。可愛い女の子が家でご飯を作って雑談をしながら食べる、所謂モッパン動画が好きなのだけれど、その動画では大盛りをアピールするためなのか、動画映えを意識しているのか、フライパンやホットプレートからそのまま食べる様が映されている。私の家は、というか私の母は、やっぱり世間体とか周りの目を気にしすぎているから、鍋から器に移して食べるのが当たり前という価値観を持っている。丁寧で素晴らしいけれどそういった完璧主義的なところが私には少し窮屈だった。北海道から東京へ引っ越したことで、泳げなくて高所恐怖症な母が私の元へ気軽に来れなくなったから嬉しい。空路と海路は母の苦手に当てはまっている。陸路である北海道新幹線が札幌まで開通してしまうと、この平穏な暮らしも壊されてしまうのだろうか。というか、新幹線が札幌へ繋がるまでずっと私は東京に住み続けているのだろうか。大学から上京した友人に比べて、大学を卒業してから上京した私は、気軽に遊べる範囲に住んでいる友人が少ない。特別人見知りだったり、付き合い下手というわけではないので、抗いがたいほどの孤独は感じていないけれど、一生住み続けることは難しいんじゃないかと気付いている。母がたまに心配して連絡してくるのは、そういったことが見え透いているからなんだろう。母からの着信は仕事や睡眠を言い訳に応答するのを極力回避している。いつかのことを今から心配しても無駄だからだ。こういったモヤモヤを掻き消すように、スマートフォンから流れる激しいロックを掻き消すように、大口で麺を啜る。
咀嚼をしながらスマートフォンを弄れるのも一人暮らしの特権だ。インスタグラムで顔のいいアイドルやモデルの投稿にいいねをしていると、また新たなストーリーズが現れはじめる。高校や大学時代の友人はおしゃれなカフェで女子会をしていたり、彼氏と旅行に行っていたり、ハイブランドを身に付けていたりするようだ。いつの間に私たちの間にこんな差が生まれたのだろう?こうやって劣等感を抱くのは今の自分が悲しいくらいに不安定で綱渡り的な生活をしているからだと思う。ザワザワした気持ちを落ち着けるためには正社員になるのが手っ取り早いんだろうけれど、今以上に頑張るつもりはない。現実逃避的にツイッター(今はXと言うんだっけ)でシオサイというバンドを追っているオタクたちの動向を探る。以前は友人とフォローし合っているアカウントしかなかったけれど、最近もっぱらそちらのアカウントは眠らせていて、今はシオサイを追いかけるためのオタク活動アカウントを新設してアクティブに動かしている。インターネットを介した関係だからか、自分と比べることが少なくてホッとする。年齢や性別、居住地がバラバラなのだから各々比べようもない。共通するのはシオサイのファンであるということだけ。昨日の深夜の音楽番組でのパフォーマンスが超シビれたとか、先日髪を金に染めたドラマーのビジュアルが良いとか、至極平和なことで溢れているからいい。
《毎日シオサイを聞くことでなんとか出社できてる、、、》
自分が思ったことを場を憚らずに吐き出す。内容がないことを吐き出しても許されるのがリアルの友人と繋がっていないSNSだ。大学時代に何度か遠征してまで向かったライブも、気軽に行ける距離になると逆に足が遠のく。上京してからは一回も足が向いていない。ライブへ行くためにはお金が必要だから、まずは労働するしかない。でも自分とナスビの生活を回すだけでいっぱいいっぱいだから、サブスクリプションで日々を誤魔化すしかなかった。
時計を見ると十二時四十分を過ぎている。慌てて残りのラーメンを口に放り込んだ。猫が残飯を舐めないように流し台に残った汁を捨て、なおかつ鍋にこびりついた塩味を味わうことがないように逆さまに置いた。洗うのは帰ってからでいい。最低限歯磨きを済ませてニベアの色付きリップを塗る。ナスビは相変わらず布団の真ん中でシナモンロールのように丸くなっている。「のんびりしてて、いいねえ」と言うと、両前足で顔を隠したような体制から前足をずらして何か言いたげに私を睨んできた。そうですね、猫様はダラリと過ごすのがお仕事ですものね。来世生まれ変わるなら家猫がいいなと思う。
十二時五十分、身支度を終え、昨日と中身が変わらないヘロヘロのトートバッグを掴み、いざ外界へと向かう。黒いトートバッグにはナスビの毛が勿論へばりついているのだけれど、気になるときにしかコロコロはしない。しかしながらこう時間がないときに限って目に付く。玄関用に常備しているコロコロは、そういったときに重宝する。なんならワンルームの姿見の横に置いてある猫の肉球がデザインされた可愛いコロコロよりも、玄関のプラスチックが黄ばんだ質素なコロコロの方が活躍頻度が高い。
「じゃあ、行ってくるねナスビ」
毎度ナスビはこちらに興味なさそうに布団の真ん中で尻尾だけ揺らす。意味のないルーティンかもしれないけれど、少なくともナスビがいることで今日の私はやっていける。風圧で重く感じる扉を押し開け、私は今日も働きに出る。
尊敬と友人関係
何事もリスペクトがなくなってしまうとダメだな、と痛感した。
今までは人と関わる時にさほど考えていなかったけれど、私の中では尊敬出来るか否かが人をはかる重要な指標なのだと思った。
一時期好いていた人間が「人は結婚指輪のブランドでマウントを取るのだ」という話をしていた。
地方に住んでいた私は、そんなこと実際にあるのかとびっくりしてしまった。そういったものは東京の洗練された人々の中だけにある小さな戦いだと思っていたから。地方から出てきた人はそんなことを考えもせずに、好きなものや似合うものを選ぶのだと勝手に思い込んでいた。
私はジュエリーにそこそこ憧れがあるから、カルティエがいい、ハリーウィンストンがいい、そういったブランドを好む人の気持ちはまあわかるつもりだった。それでもマウントのためにブランドを選ぶというのはよくわからなかった。
最近インスタで「ラブブ」という歯を剥き出して笑うウサギのような大ぶりのマスコットが人気なのもよくわからない。
好きという純粋な気持ちよりも、欠品続きで偽物が出回るほど人気だからという理由で身に付ける人の気持ちがわからない。
「わからないなあ」と呟いた時には、そういう価値観の人間だったんだなとがっかりする自分がいた気がする。
非難をする訳ではないけれど、それに迎合する人間が魅力的には思えなかった。
月日を経る中で価値観が変わっていったのか、最初からそういう人だったのか、私の価値観が変わったのかはわからないけれど、過去の尊敬していた時には戻れないんだなという気がした。
思えば話せば話すほど「私たちって違うんだなあ」と感じる部分が増えていた。そういうことだったんだと思う。
友人関係においても尊敬し合えることはきっと重要で、友人を思い浮かべたときに良いところばかりを思い浮かべるのはきっとその人を尊敬しているからなのだと思う。
逆にいうと良いところを思い浮かべることができない友人は、本当の意味で友人とは言えないんじゃないかという気がしてくる。
友人と衝突してしまったときに、友人がXで「私が下手下手に出たら上から来やがって」といった内容を呟いていたのを見てしまった。
私が配慮に欠けることを言ってしまったのも悪いのかもしれないけれど、そもそもそんな発言を友人にするものだろうか。元々友人と思われていないからこそ出た発言なんじゃないかと思った。
私も対等に怒れたら良かったのかもしれないけれど、怒っても無駄な気がして何も言えないまま時間が過ぎた。
尊敬していなければ友人ではないし、尊敬されなくなったら友人ではない。
歩み寄るのさえ億劫だと言われた時点で、もう友人ではないだろう。
学生時代は仲が良かったのに、と言っても、歩幅が違っていけば違う価値観を持った人間になってしまう。
悲しいけれど、人生はそんな感じでできているんだなと身に沁みて思う。
そんな中でも共通項を大事にしてくれる友人や、新しく出会った友人に支えられて生きている。
特にこの文章を読んでくれた人は本当に私を大事にしてくれている人だなと思う。ありがとう。
性質の違い
私が惹かれる言葉を歌にする歌手のことを苦手だと言われると、つまりそれって私の本当の部分は苦手ですよって線引きをされたみたいでちょっと悲しくなった。
苦手だと言われた音楽は彼の前では聴かない。相応しい自分になるためにはそういう慎ましやかな努力の積み重ねが大事だと思っている。潜ませた音楽をたまに1人で聴くと、どうしてこんなにも魅力的なものを隠して楽しんでいるんだろうと虚しくなる。人には好き嫌いがあるってわかっているけれど、納得はできないから大人になりきれていない気がする。
高校生の頃、仲良しグループの中でお互いが好きな音楽を聴かせ合う異文化交流の機会があって、私はそのとき空気も読まずにそのとき1番イケてると思っていたバンドの激しい音楽を聴かせた。勿論友達の顔は少し引き攣ったような、困ったような顔をしていた。間違えたなと思ったのでサビに入る前に動画を停止した。「私は興味がない男性アイドルの曲を黙って聴いていたのに、なぜ?」と思ったけれど、受け入れられないなら仕方がないんだろうなと諦めた。そういう感性的なものは幼少期からの積み重ねだから、少しでも引いたのだったら今後もどうもならないんだろうなと思った。
仲良しグループの人々とは卒業する前に何となく疎遠になった。音楽を聴かせたときにわかったように、表面上の仲良しだったから何も後悔はないし、何も感情が湧かない。
そんな思い出があったから、「最近聴いてる音楽は?」なんて訊かれると冷や汗が沸く。作業中に音楽を聴くからジャズとかクラシックが多いかな、なんて常套文句もできた。嘘ではないけれど、本当でもないことを言うと、自分がどんどん無くなっていくような気がして悲しい。他人を隔てているような感じもして
、何となく申し訳なくなる。
本音を語り合える友人は歳を重ねるごとに増えたような気がするけれど、気兼ねなく遊びに誘えるような友人の数は学生の頃と比べると減った。「厳選された」というと聞こえはいいかもしれない。
大人になるとお互い何となく価値観が違うな、と疎遠になっていく。積み重ねてきた思い出があるからそう簡単に割り切られると悲しいものを感じるけれど、切り離すだけの理由があるならそれでいいと思う。お互いを思い合えないなら一緒にいたってお互い傷つけ合うだけだ。
私が感じた悲しみを伝えて、相手が責められたと感じて怒るのは根本的に性質が違うのかもしれない。
足の爪が伸びていく
私はインターネットがすきだけど、だからってインターネットに私の全てが載っているわけじゃない。
わかられたくないから書かないことだってあるし、知ってほしいけど恥ずかしいから色々書いて誤魔化すこともあるし、饒舌に話したくなってどうでもいいことまで事細かに発信することだってある。でもこれらは私のわがままで成り立っているから、友人みんなに私の書いたあれこれを全て読めなんて思わないし、寧ろ読んでるよって言われた方がむず痒いような気になる。私のことをここまで発信しているって知らないふりして普段の私は生きている。
間違ったことを言っていても、短気なことを言っていても、ちょっと真偽が怪しいことを言っていても、その時点の自分はそれが真実だと思っているから、極力言葉を消さない。
消さないことで、ちょっと昔の自分の影みたいなものを他人が見て「恥ずかしいな」とか「自分だったらこうだな」とか思ってくれればそれでいい。賛成も反対も否定も肯定も望んでいないけれど、私の思考で少しでも読んだ人の思考を動かすことができたらそれでいい。
夫にも全ては話さなくていいと思っている。母にも全てを話さなくていいと思っている。友人にも全てを話さなくていいし、上司だって主治医だって、私がわかられたい部分だけを話せばそれでいいと思っている。
全てを知ることは良いことばかりじゃない。でも楽をしたくて話さないわけでもない。自分がどう見られたいか、自分が自分をどれだけ人に開示できるか、結局は自分自身の問題なんだと思う。だからひとに私の秘密主義を咎められても、人格否定としか思えなくて少し窮屈になる。これは私の悪い癖だとは思う。
具体的に言うと、悩み事をひとに話すのは苦手だ。私の弱点や思想がバレてしまう、という恐れがあるのは勿論、その反応から相手にわかってもらえないことに気付いて悲しくなってしまうから。自分が一番他人に期待してしまうから、最初からガッカリするような事象を生み出さないようにしている。そうすれば自分が傷付くことはないから。そうすれば、相手に嫌われることもないから。
自分のことをここまで開示しておいて何を言う、と思うかもしれないけれど、意外と話していることと話さないことは明確に分けている。それだけ臆病に生きている。
20代後半のこの歳になって、できるだけ人生波を立たせず穏やかに過ごしたいと思うようになった。それというのも、既に大きな感情の揺さぶりに耐えうる体力が残っていないからだ。だから、臆病になってしまう。
私に脅威をもたらすもの、全てが怖いから見ないふりを続けたくなってしまう。何の解決にもならないから、いつかはお布団の中みたいな絶対に安全な領域から踏み出さなくてはならない。わかっているけれど、自分の悪いところは自分が一番わかっているから、ただ足の爪を眺める時間だけが過ぎていく。
一ヶ月、私との向き合い方。
東京に来て、一ヶ月が経とうとしている。家の片付けをして、日々の家事をして、猫の世話をして、電車に乗って友人と遊びに行き、疲れて布団で丸まって、たまに通院をする。そんな感じで私の生活はできていて、やっぱり完全に元気になったような気はしないから、ちょっと悲しい。
東京は人が多くて、自分を知っている人とすれ違う可能性が札幌に居るよりも少ないから、平日に街中を歩いていても気持ちが楽だ。中学高校の友人、元会社の先輩同僚、こんな自分で会うのが憚られるような人たちと会うことはほぼ無い。東京のいいところは、こうやって人に紛れられることだと思う。
ただ、自分が落ち着けるようなカフェとかお店とか公園とかを見つけられていないから、外にいると酷く疲れる。いつも背筋に定規を当てたような気持ちで、シャンとしていないと駄目だという気になる。まだまだ私は余所者なのだ。いつになったらこの土地に馴染むことができるだろうか。そう思いながらも、やっぱり染まりたくはない。
一日に一万歩歩けるような日もあれば、家から一歩も出ずに塞ぎ込む日もある。窓の外から漏れる子供の声に罪悪感を感じながら薄いカーテンに包まれた部屋でじっとするのも悪くはない、と受け入れることはできるようになった。「昨日頑張ったしな」とか、理由がわかるようになったからかもしれない。自分として生まれて28年も経っているのに、未だに自分の調子の整え方がわからないというのは何とも間抜けだけれど、ややこしい私の調教方法なんて勝手にわかってもらってたまるかと考えてしまうから、仕方ないんだと思う。
東京は他府県と地続きで、少し待てば次が来るような新幹線で結ばれている。そんなだから、すぐに遠くへ行けてしまって、遠くに行ったという自覚が湧きにくい。今まで至極便利に感じていた飛行機という乗り物がいかに不便だったかを思い知らされる反面、旅へのときめきが薄くなってしまう。
夏が来る前に私の心の安寧地・京都へと向かうつもりだけれど、これもまた直ぐに行けてしまうからいつもよりも特別感がない。便利なのも困ったものだなと思いながらも、京都で遊ぶためのロスタイムが少なくなるのは大変喜ばしい。今までは2泊3日の旅の中で中1日ほどしか自由時間がなかったのが、ほぼ倍に変わる。新幹線は素晴らしい発明だ。
そんな感じで京都という比較的近い未来への希望を抱いて、最近の生活は成り立っている。うまくいかなくてガッカリしたり、自分の状況を考えて悲観的になったりもするけれど、楽しいことだけを考えて生きている。今は良い香りの猫を撫でながらゆっくり毎日を過ごすのが仕事だ。