うるさいどっかいけ

 

昔は焦がれて仕方がなかった人間がどんどん魅力的でなくなってしまう。顔とか学歴とか年収とか、どんなに装備を強化していても、最終的に行き着くのは「わたしに優しくないひと」なんだから。

 

今も昔も恋愛という曖昧で不定形なものが好きだけれど、今のそれと昔のそれは全く意味が違う。

昔は自分をどうしようもなく痛めつけるものが好きだった。後味の悪い映画が好きなのと同じで、叶わない残酷さが妙に胸に張り付くのに快楽を感じていた。陳腐な言葉で言うとメンヘラじみていた。私が相手を想うのと同等の愛をくれない人が、決まってわたしの手綱を握っていた。無責任な言葉に浮かれて盲目になっていた。

今は自分が想っているのに相手が答えてくれるその関係性が好きだと感じている。一方的な好意は無と同意で、受け止めてくれなくても私の好意をガラスケースに大切にしまってくれるような愛情が無いと価値がない・縋り付く意味がないと思ってしまう。わたしを大事にしてくれる人しか愛せない。だってわたしは有限だから。

 

自分のなかで綺麗で半永久的だったはずの思い出が色褪せてしまうのは、そういった思いやりのない相手に興醒めしてしてしまったからだと思う。

おそらく歳を重ねるとはそういうことで、年々甘味が抜けて渋くなっていく。変に現実主義者になっていく。

 

誰に言っても「やめとけ」と言われるような恋愛をしていたあの時が、今になって急に意味があるようなものに感じた。

確かにある点においてはどうしようもなくだらしがなくて、当時10代の私が手に負えるはずは無かった。私が思うよりもずっと思われていたんじゃないか。寧ろ私が好意を無碍にしている立場だったんじゃないか。今更になって申し訳なさと自分の至らなさを感じる。

みんなはその人のことをネタにして、まるでわたしの黒歴史かのように言うけど、黒歴史でしょって笑っていいのはわたしだけだし、よく知らない外野は黙っていてほしい。そんなことを言うほどその人に思い入れとか愛着はないのだけれど、それが全ての終わりで、私の何かを変えてしまったのは事実で、わたしにとって拭えない過去だ。

 

 

好意を推し量るのはもう疲れてしまった。好意があるとわからないと頑張れなくなってしまった。

これは一時期こころが疲れてしまったせいなのかもしれないし、単に自分にわがままになっただけなのかもしれない。

 

 

隣人愛が全く尽きてしまった訳ではないけれど、ヒビが入ったグラスに水を注いで、注いだ先から流れてしまうのを、悲しく思わないわけがないでしょう。