普通を疑う

エントリーシートの趣味の欄に「読書」と書いてしまったので、これは是非何か読まねば…と考えた結果、現在、村上春樹著「スプートニクの恋人」を読んでいる。ある女の人に恋焦がれる女性と、その女性のことを好きな男性。話は大体その三角関係で出来上がっている。

村上春樹の小説は、これの他に「ノルウェイの森」しか読んだことがないけれど、好きな文章を書く人間だなと思う。結論を急ぐ人間にとっては少しまどろっこしいと思われるのかもしれないけれど、私はその婉曲な感じが好きだと思う。ただ、少し濡場が多いのが鼻につくけれど。

 

その他に彼の文章で気になる部分は、単に私が彼の人生に対する妬み嫉みを抱いていることによって生じているのかもしれない。語り手でもある青年が『普通の家庭に生まれて育った』なんて言いながら普通に大学に進学してのうのうと暮らしていたとか。物語の鍵を握る女性は親に仕送りをもらいながら執筆活動に勤しんでいるとか。それを普通かのように書いているのだから、なんだか興醒めしてしまう。羨ましいの裏返しなのだろうけど。

 

これは日常の会話でもそうだけれど、自慢のように言われる自慢はそこまで鼻につかない割に、普通ぶって話される内容の方が自慢に感じていらついてしまう。

 

友人と話している際に、話の文脈では省略してもいい内容をわざわざ話されて、なんだか少しモヤモヤしてしまった。

友人のスペックやらを鑑みると話してくれた内容は特に際立って自慢気なことでもない。私は友人のライバルでも何でもないし、(貴賤という意味ではなく、単にジャンル的な意味で)生きている世界が違うから妬みも嫉みもないはずだった。

そうなんだけれども、会話を終えた後になんだか座り心地が悪いというか、むず痒いというか、そんな気がしてならなかった。

 

 

自ら「頑張ったんだよ!すごいでしょ!」と語られると、こちらも微笑ましく「すごいね」と言えるのだけど、「私にとっては普通です」というような形の自慢はあまり精神に良くない。

私自身もきっと他人に対してそういった気持ちにさせるような言動をしたりもするのだろう。(恋人がいるとか、大学に通っているとか、刺さる部分は個人のコンプレックスによるのだろうけれど)

人毎に背景は違うのだから仕方ないと言えばそうなのだけど、より異世界の人間に対しては慎重に言葉を選ばねばならないなと感じた。

 

特に自分が頑張ったことに関しては「がんばった!」とアピールすることが、不快感回避の方法の一つだと思っている。(そのことによって逆に歪みが生じる場合もあるのだろうけど)

頑張ったことは頑張ったと言いたいし、恵まれていることに対しては素直に感謝できる心を持ちたい。所詮理想ではあるけど。気持ちが大事。