好きな人が好きな人じゃなくなるのが耐えられない

 

私が小学5年生か6年生の時に、「表紙が可愛いから」と手にした本が森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」だった。

中村祐介が描く美少女のイラストの雰囲気に惹かれたものの、文体は堅く小学生の時分ではなかなか手強い読み物だった。そもそも行ったこともない京都の地名なんかは字だけで認識していた。(先斗町を「ぽんとちょう」と認識するのに2、3年かかったような気がする。ルビは1番最初に出てきた時にしか振られていない。)森見登美彦が描くその話はファンタジーと現実が良い塩梅で織り込まれていて、どこまでが本当でどこまでが妄想なのかわからなかった。その曖昧さが好きだった。

 

高校生になって、少しずつ自分の動ける範囲が広くなっていく中で、空想上の京都が少しずつ現実に近くなっていった。京都で暮らす学生とのコネクションを見つけ、彼等の言葉の端々から紡がれる現実と森見氏の妄想を照らし合わせて、フィクションがどこから始まるのかを知っていった。

私の中でその街は、一般的に語られる古都・京都ではなく、物語の中の限りなくファンタジーに近い京都だった。後に「聖地」「物語の舞台」というような意味合いが近いのだと感じるのだけど、そういう言葉で括ってしまうと安易すぎて良くないと思う。

わたしにとって京都は帰るべき場所であって、拠り所だった。

 

飛行機を乗るようになって、地元である北海道をあまり良く思えなくなってしまった。今ではそんなことはないのだけれど、地元に縛り付けられて生きる人生は非常に閉塞的で成長がないものだと思った。

高校受験で「同じ学校の人間があまり進学しない高校」を選んでいた時点で自分の根本がそういった性質を持つ人間だったのだろうと思う。実際安易にそう区切ってしまうの非常に良くないのだろうけれど。

 

 

最近はコロナの蔓延があったり、美術の展覧会へ向かうという誘惑が加わったことで、久しく京都に行けていない。大学に入った当初は年に数回京都に向かっていたのに、今では2年以上足を踏み入れていない。

京都のことが嫌いになったわけでもないのに、なんとなく疎遠になってしまっている。思い出すと「ああ、行きたいなあ」という気持ちが湧き上がるのだけれど、日常に忙殺されているのか思い出す頻度が少しずつ減っている。

 

決定的な出来事があって、京都と決別したのであればそれはそれでそういうものなのだと腑に落ちるような気もするけれど、なんとなくフェードアウトしてしまうような感情は自分にとって何ももたらさないんじゃないかと悲しく思う。

学生時代の淡い恋愛みたいに、なんとなくそんな感じで済ましてしまうのが悲しい。

昔は狂ったように訪れていたなあなんて、気の抜けた炭酸みたいな扱いをしたくはない。