振り返す手

遠くに行く人を激励したりしたことはないから、送別会の雰囲気をいまだにわかりかねている。遠くに行ったら私のことなんて忘れて楽しくやっているんでしょう。それなのにそれをめでたいことのように話すのは、凄く寂しいと思った。

 

気が付くといつの間にか私の人生という舞台から降りている人は山のようにいて、それでも夢の中であたかも私がずっと思っていたかのように顔を出したりする。片手くらいの回数しか会話をしたことのない同級生。遠くから可愛いなあと眺めていた先輩。一緒に部活動をしてきた人だって、今ではわたしの目につく範囲に存在しない。

ただ少し生きている風を見せる文字とか写真で生存を確認する。

 

あの当時はあんなに仲が良かったのに、生きる場所が変わってしまえばやけに他人行儀になってしまう。私の悪い癖。誰にとっても私の存在はあまり良くないもののように思えてしまって、フェードアウトしたくなる。寧ろそういう霞み方じゃなければ気持ち悪いように感じる。

何か大事件が起こったり何となくお互い合わないなと感じたり、確実に何かがあった上で疎遠になるのは、責任の所在とかそういうことを延々考えてしまうから苦手だ。

確実に相手が悪かったり私が悪かったり、そういうこともあるから一概には言えないけれど。自分が悪いのか相手がわからないまま着地点もなくずっと谷底に突き落とされているような気分になるのが嫌だ。

 

できるだけ曖昧に線引かれた世界がいい。その方が平和だ。

 

恋人ができたとかそういうことで疎遠になるパターンもあると思う。

現に今、仲良かった男友達でも遊びに誘うのを躊躇してしまったりする。わたしが1対1で付き合うのが好きだからというのもあるけれど、そういう場合の忖度は非常に難しいと思う。でもできるだけ疎遠になりたくはない。

恋人と友人は別物だし、得られるものだって、話す内容だって変わってくる。同性の友人でいいじゃないという人もいるだろうけど、人間って一人ひとり違う思考を持っているから「その人じゃなくてもいい」というのは言えない気がする。

 

そう考えると疎遠になった人たちにとって私は「その人じゃなくてもいい」の中に入っていたんだなあと思う。頭も特別良くないし、何かマニアックな思想を持っているわけでもない。当然と言えば当然だけど、他人に値踏みされたような気がして良い気持ちはしない。

あまり心を開けない友人とも複数回顔を合わせているのは、「その人じゃなくてもいい」という気持ちで人との縁を切りたくないからなのだと思う。これは私が善く生きているということではなくて、良く見せたいエゴ。

エゴであったとしても誰かの気持ちを支えたり救ってあげることは出来ると思うから、損得勘定なくいろんな人に会いたい(とは思っている)。

 

誰も彼も熱に浮かされた世界で、わたしだけは氷水に浸かって寂しく生きていたい。