棲み分け

 

嫌いな人間のSNSを覗いてしまう癖が抜けない。悪いことだなあ、浅ましいことだなあとわかっているけれど、過去を振り返って「なんだこいつもこの程度じゃん」と感じると、少しホッとしてしまう。同じ道を目指しているわけでもないから、少しくらい方向性が違うだけで「そういう考えは理解し難い」なんて思ってしまう自分が恥ずかしい。それでも繰り返してしまう。

 

可愛い女の子のSNSに載れるのは可愛い女の子だけ、なんてくだらないルール。目にしては反吐が出る。私はどちらかと言うと(主に肖像権が気になるので)友人の画像を安易に載せられない人間。映えない人間を載せたくないという気持ちも分からなくはないけれど、少なくとも排斥される立場でもあった私なので、明確にそういったことをしているのは幼稚だなあと感じてしまう。自分の気に入った人間しか載せない。私みたいに少し影があるような人間はいなかったかのように振る舞う。おしゃれなカフェと、ブランドの紙袋しか載せない。汚いことだっていっぱいしてるでしょうに。

 

一般的に健康だと思われている人間の、「SNSに愚痴を書くのは意味がわからない」というような主張は、健康に生きてきたからこそなのだろうなと思ったりする。誰に相談していいかもわからず、顔の知らない私の実際を微塵も知らない人間に話してみたり、誰かに助けを求めるような言葉を誰へでもなく壁打ちすることなんかないんだろう。華々しい文化的な世界なんかじゃないから理解してもらわなくて結構だ。そんなことを口にしながら、「そんなことも想像できないなんて浅はかな人ね」なんて頭の中で侮蔑する。傷だらけの人間しか信用しない。

インターネットは、相手が自分のことを深く知らないから気軽に相談できる反面、所詮他人だから浅い言葉しか交わせない。結局一般論だったり、一方向から見つめた際の解決策しか提示されない。それでも、相談したことに向き合ってくれる。そこがいいところだと思っている。人を助けることで自分も巡りめぐって救われるのではないか、というような気分にさせられる。そこが好きなところ。

話さなくても、いいねをもらうだけで「わかってくれる人もいるのだ」というような気持ちになる。寄り添いはしないけれど、遠くから見守ってくれている。そんな気がする。

勿論インターネットで知り合った人を100%信じるなんて危険だという考えもわからなくはないけれど、SNSでしか絡みがない人も血が通った人間なのだと思う。私は人の善いところを認めていたいから、SNSで吐いた愚痴も人が優しくなるための一つの方法なのだと考えたい。