おうち時間

不謹慎かも知れないけれど、あらゆることがウイルス騒ぎで滞っていて良かったなと思います。

不要不急な用事は慎まなければならない世の中において、自分の娯楽が次々と削がれていくのを感じる。友人とご飯に行ったり、カフェ巡りをしたり、美術展を見に行ったり、フィルムカメラで写真を撮りに行ったり、今となっては少し幻じみた記憶。

 

今まで恋人宅に居着いていた私ですが、必要か急な用事によって実家に強制在宅しています。

父もいなくなって母1人で2階建ての一軒家に住むのは酷だろうと思い実家にいるのに母は「この家で1人で住むのかあ〜」という旨の言葉を呟くので、私の居場所がなくなった気持ちになっています。(元々実家にいなかったのは父が嫌いだったからでした)

恋人宅は元から一人暮らし用のものなので私がいると少し過密になってしまいます。だけど恋人は私がいた方が生活できている気がするのでなんとなく居場所らしく感じていました。

 

ウイルス騒ぎで恋人に会えない、というのは自分にとって疎遠なことのように思っていました。

実際味わってみるとなんだか自分に穴が開いたような感覚に陥りますね、さみしい。単純に、今自分の身に起きたことがショックなことだからかも知れないけれど、だからこそ隣に慰めてくれる人がいないのは辛いと思う。甘えているのだと思う自分もいるけれど。

 

父親の遺影と対峙してお線香をあげる恋人は、なにを考えているんだかわからなくて、少し悲しい気持ちになりました。近いうちに御挨拶にいいかなきゃね、今週末かな、なんて言っていた矢先に行ってしまうんだから、恋人も困ってるんだろうな。自分の不幸が他人の不幸になってしまうのは言い難い辛さがあります。

 

私は他人に優しくできるのでしょうか。

歳を経ても延々自分のことしか考えられない自分が嫌になってしまいます。自分だけのために余分に買い占めたり、外出したり、なにが正義か履き違えてしまう人間になってしまうのではないかという恐怖が微かに胸を締め付けています。人にとって悪なことを、眈々と行っているのかも知れない。それは、すごく不幸なことだな。

 

実家も恋人の家も、どちらも自分の「家」という気はしないけれど、やっぱり何処かには寄生して生きていかなきゃならないんだと思うと、いつまでわたしは蛹のままなのだろう、という気がしてきます。

自分の足で立って、自分に責任が持てるようになれれば良かったなあ。