自分の中で思い出に残っている人間は、まあ、多いのかもしれない。
たまに夢に出てきて私を後悔に浸らせる悪魔。ずっと「いいひと」に徹しても、ときに「わるいひと」になったとしても、敵わないものは敵わなくて、私の後悔は日に日に増していく。
私が今暇か暇じゃないかは関係がなくて、私が楽しいのも苦しいのも関係なく襲ってくる。
わたしの思いが枯れた原因のひとつは、私が文章に残して自分の気持ちを少しずつ垂れ流していったせいだと思う。自分の好意が相手にとって毒だと知っていたのに、思い続けることに疲れてしまって、意図的にそうしたんだろうと思う。
いつの間にかできた隔絶はどうしたらいいのか、いまいちわからない。もうどうしようもないと半ばあきらめているけれど、やっぱりどこかで振り返り続けている自分がいる。
わたし個人としては、過去に私に酷いことをしたとしても、なんとなく気が合わないような気がしても、時間が経ったならまたリセットできる人間だと思っている。わたしに対して奔放だった元彼も、私に対して謎に冷たくしていたあの子も、敵意なく私に話しかけてきたならもう一度信じられるような気もする。基本的に私は人を信じていたいし、信じられる世界でありたいと思う。
でもそんな私の思想を他人に押し付けるのは良くないと思うから、世界平和は訪れない。いつもどこか冷ややかで、間があって、一触即発な雰囲気がある。そんな世界で私は生きていかねばならないから、ちょっと窮屈でこころが貧しくなる気がする。
時間が経ったら何もなく仲良くできる人種は私にもいるらしくて、そういう人に助けられながら生きている。
わたしは生きるのが下手なので、自分のこころの傾き具合で人に面倒ごとを押し付けてしまうことが多くなってしまった。約束をドタキャンしたり、頼まれたことが出来なかったり、返事すらできなくなったり。こういうことの積み重ねで自分の周りの人が離れていってしまうのを感じていないわけではない。だけど、こういうのは同じ境遇の人でなきゃわからないんだろうというのもわかっているから、わかってほしいなんて大声で言えない。自分だって、健康な時はそう思っていたよ。
わかってほしいけれど、こんなだらしない自分をわかってほしくない。そんな気持ちで最近は文章を打っている気がする。怠惰を認められるのはそれはそれで暴力的で苦しい。
人間関係は大抵の場合、答え合わせもなく、フィードバックもなく切れてしまうから、何が悪かったのか気付くことが出来ないでいる。なんとなくここが悪かったのだろうなあと考えることは出来るけれど、実際のところそれは自分に都合がいい主観でしか語られていない。
そう考えると、ある程度数値化される就活とか受験とかそういったものは、楽なのだなあ、(と思えるようになりたい。)