実像と虚像

今日唐突に憂鬱がきた。

実は前日から怪しかったのだけど、やっぱりきてしまった。テキパキ動けば授業に間に合ったのに放棄してしまった。

 

あーもう無理!と割り切ったら楽なのに、根が真面目だから「この程度のタスクも出来ないなんて」と落ち込む。だから余計に憂鬱が加速する。

 

今日は本当に凄く楽なことしかなかったんだ。2限はグループワークでゆるゆる話すような授業だったし、3限はガッツリモノづくりだから行けばハナマルという感じ。それなのに行けなかった。

今日は友達の家に行って宅飲みする予定もあったのに、行けなかった。頭も痛かったけれど、態々札幌駅まで出向くのが非常に難しかった。

諸悪の根源は学校に行くこと・遊びに行くことへの腰の重さだと思う。

 

まず地元駅まで20分ほど歩き、電車に揺られること2、30分。大学に行くならまた30分歩く。単純だけれど、考えるだけで疲弊してしまう。

別に今始まったことでもない。高校の時からそんな感じだった。

駅まで20分歩いて電車で20分、地下鉄に乗り換えて15分くらい?バスに乗り換えて15分、徒歩5分で学校。通勤通学ラッシュに被るので当然座れないし、なんなら痴漢にもあうくらいの通学路。それを毎週5日規則正しく通っていた。

 

それなら何故今出来ないのだろう。1限は週2だし、そもそも学校に行くのも週4。楽になったなら余裕でこなせるはずなのに。

できることができなくなる恐ろしさ。

視力がいつのまにか落ちていく恐怖と似ている。

 

誰かが「死後に臓器提供するのは構わないけれど、眼球だけは嫌だなあ」と言っていた。

私はそれをきいて、何故眼球なのだろう と延々不思議に思っていた。

心臓ならなんとなくわかる。1個だけだし、「ココロ」という感じが備わっているぶん自分が宿っていそうな気になるから。でも眼球はどうだろう?

私の好きな人、某先生は視力が悪いのがアイデンティティみたいなところがあるから眼球を誰かに渡すことは自分の喪失のような気がするし納得がいく。

でもその人は先生と比べたら全然視力は良いし、何か眼病を患っているわけでもない。目がチャームポイントだというほど目力があるわけでもないし、際立って目にアイデンティティを添加しているわけでもないと思う。

 

どうでもいいけれど8月末に発症した結膜炎が未だに治らない。一時期よりは治まってきたけれど、具合が良いとは言い難い。

 

当たり前に未来の話をする。