ペンギンとわたし

 

私がこの話を読んだ時はまだ未成年。所謂子供だった。

けれどこの話を見た時はもう成人していて、大人と自称する場面も多くなった。それがとても悲しくて、遣る瀬無かった。

 

大きなスクリーンの中でペンギンがふいふいと動く様は、数年前に私が頭の中で描いていたものと一緒だった。些細なことかもしれないけれど、そんなことに凄く心が締め付けられた。現代よく使われている言葉で表すなら「エモい」のひとことに尽きるだろう。

あまり大きな声で言えないけれど、開始10秒ほどで涙してしまった。

 

主人公であるアオヤマ少年はしきりに「大人になるまで◯日」と数えるのだけど、そういった風に指折り何かを数えるのは受験以降ないなあと思った。

数えないで過ぎる日々は1日の重みを失って、わたしに淡々と消費されていってしまう。私は少年のように、毎日ノートいっぱいの発見をして生きているだろうか?

最近はベッドの上で動けなくなる時間が増えた。

 

 

見終わって、長年の楽しみが終わってしまったことで魂が抜けた気持ちになった。

一緒に行った友人は私が落ち込んでいることをものすごく申し訳なく思っているようだけど、これはあなたと行ったから起こったことじゃなく、誰と行っても、一人で行っても起こっていたことなんだよ。

 

目を閉じたら頭の中でキラキラ朝日に透ける少年の姿を何度も見る。

気づいたらいつのまにか消えている。

全部全部長い夢なのではないか。

 

人と同じように赤を見たら林檎、林檎を見たら赤を思うのが恐ろしい。

ロボットみたいだ。

だけど赤を見てバナナを思って、バナナを見て青を思うような自分も、社会不適合な感じがして嫌なのだ。私はなんなのだろう。

 

ペンギン・ハイウェイでもまた、子供の思うことを軽んじる大人が出てきて、結局子供が意志を押し通すような場面が出てくる。

わたしにはそれができないから、未だこどもだ。

映画でも芝居でも、人が人を怒鳴るのは苦手。

本当によく歪められました。

 

自分が書いた文章が他人に見られるのは怖い。

読んで批判されるのはもっと怖い。

ダメなのは自分が一番知っている。つらい。

それでも文章はわたしから流れていく。もっとまともに生きて、文章なんかが溢れ出ない自分が良かった。

触れる全てを文字に変えて、言葉にならないものを言葉に変えて、一定の人からは嫌われてしまう。

わたしのことを文字で流さないでほしい。

人をネタのように扱って、悲しさも嬉しさも怒りも楽しさも全部文字にしてしまう。

わたしは怪物だ。

大丈夫だよお前なんて文章にする価値ないから手帳にも呟きにもブログにも本にもしてあげないから。

 

くすりがのみたい