わたしの人生

お金を稼ぐ才能がないんだなあ、とボンヤリ生きていて思う。

 

アルバイトも出来ないほど社会不適合であるとかそういう意味ではなくて、何もないところからお金を生み出そうという気持ちが無いに等しいということ。

自分自身すごくお金に困っているとかではないからかもしれないけれど、「稼げるよね?」というタイミングを見失いがち。見失うというか、選択していない。選択できない。自分なんかがこの程度でお金を手にしてしまうなんて、という気持ちになる。

 

例えば今綴っているみたいな文章。

私は言葉を纏めるツールとしてはてなブログを選んだけれど、例えばnoteとかであれば文章を読んで気持ちを動かされた人がチップのように私にお金が巡ってくるのでしょう。(こういう日々浮かんだことをボンヤリ連ねているような文章で巡ってくるとは思っていないですが…ちょっと気合の入った文章だったらもしかしてなんていう気もしてしまう。妄想だよ。)

人によってはうまいこと文章を纏めて、みんなに広めて、少額ではあってもリターンを得ていたりする。いいなあと思うわけではないけれど、うまくやっているなあ、と溜息みたいな濁った思考に陥ってしまう。

 

あとは私が善意でしてあげたいろいろ。例えば裁縫は他よりも少し長けているというか、苦手意識がないのでやってあげたりすることが多かったなあ。

高校卒業の3月あたり、友人の制服のスカートをディズニー仕様に詰めてあげたことがあった。スカートの裾を適当に切って、折ってアイロンで癖付けをして、そのあと手縫いで生地の表面まで縫い付けないように掬っていったりした。布表面の2,3本を掬うというのは難しくもないのかもしれないけれど、それを一周ぐるりと縫い付けるのは骨の折れる作業だった気がする。人のものだから縒れたりしたらやり直しだし。でもその作業をして、結局報酬とか見返りというものはなかった気がする。ありがとー、という平坦な言葉くらい。いいけど。いいけどさあ、って数年経って愚痴っちゃう私も私で何だろうなあ。

 

そんな感じで、自己肯定感が低いからか一方的に何かを渡したり、施すだけで終わってしまう。それはそれで嫌じゃないのだけど、ふと回りを見回したときに「あれ?」ってちょっと違和感を得たりする。

お母さんは「思いやりを持ちなさい」と口酸っぱく言っている。3姉弟で喧嘩が多かったからか、そう言われるのがいつものことで、自分には思いやりが足りないんだと何回も何回も反芻した。思いやりって人に施すことじゃないんだっけ?

 

人に見せるための文章じゃないけど、心の中で誰かに見られたい、見せたいなんて思っているんだろうな。私は。

 

 

ずっと考えていることがあって、私の将来の夢のことなんだけれど、

私が紡いだ言葉を誰かが一生覚えていてほしいなと思う。

私が書いたなんていうことは重要じゃないから忘れてしまっていいのだけど、寝るとき、シャワーを浴びているとき、満員電車で直立不動しているとき、山のような資料に目を通す前とか、そんな日常の中でわたしの文章が浮かべばいい。そしてTwitterみたいな文字を打ち込めるような媒体を通じて、私じゃない人がわたしの文章を広めていってほしい。

私であることは全く意味がなくて、わたしの文章がぽつんと孤独に生きていてほしいと思う。

そのために私は文章を書いているといっても過言じゃないと思うから、見返りなんて求めちゃいけない。そんな気持ち。

正しいとかは思わないけれど、私なりの願掛け。