トラウマとの共生

トラウマと共に生きるというのがわたしの生活のひとつのテーマになっていると、なんとなく思う今日。

わたしが好きになる人は、決まってわたしにないものを持っている人だった。だからこそ彼らが何気ない日常の話をするだけで、わたしはどことなく蚊帳の外のような気持ちになって少し息がしにくくなる。

憧れとトラウマは表裏一体だと思うんだ。

 

わたしの恋人はすごく素敵な人で、一生添い遂げたいなと思うくらい良い男。

わたしが挫折した学問の世界を生き続けていて、その上ビジネスとかそういうことにも関心があって、だからこそ今の世界から追放されても生きていけるような生命力がある。

それと比べてわたしは?

就活ばかりでナーバスになっているのかもしれないけれど、特筆すべき実績も功績もない。言うなら人より愛想を振り撒くのが得意なくらい。ストレス耐性なんか全然無いからどんな世界を生きるにしてもハードモード。

彼が自分の研究している対象の話をしたりなんかすると、自分の小ささを痛感する。勿論努力で手に入れた世界なのは知っている。でもどうしても喉が渇くような気になる。

 

生きるほどに自分が学問から逃げた気がして苦しくなる。

そんな闇はいつもわたしの横でクウクウ鼾をたてて横になっている。わたしなんかを敵だとみなさないで、わたしばっかり、恨めしく見てしまう。

 

恋人のことはスペック関係なしに好きだ。警戒心の強い柴犬みたいな感じで、手懐けてから愛しくてたまらなくなる。わたし以外を女と思っていなくて、嫉妬深いところも好き。布団で微睡むわたしの顔を見て「可愛いねえ」と声をかける、陽だまりみたいな暖かさ。

腕に包まれるたびにこの人で良かったと思う。今やわたしの身体の一部のような気がしていて、思考まで混線している。彼は他人じゃなくて、もう1人のわたしなんだと思っている。

 

我が儘かもしれないけれど、彼をわたしだと思うことで保てる何かが心の隅にある。形容し難いけれど、依存でもなく、慢心でもなく、もっと深くて広いもの。

 

ひとは消してしまいたい過去とか、トラウマとか、所謂黒歴史を持っていると思う。わたしはそういったものを受容して生きていきたいと考えている。トラウマは何かに対する憧れで、憧れはもっと良い意味を含んだものだったと思うから。そう捉えることで自分が救われるかはわからないけれど、2020年を生きるわたしは取り敢えずそういうことで一歩踏み出そうと考えている。

2017年37ヶ月と数えるのをやめていこうと企てている。