過去をわりきって。

 

過去だからこそ、過去と捉えているからこそ、ぼんやり考えを巡らすことがある。

「もしわたしがあのときこういった選択をしていたら」

決して今の自分を悲観するようなものではなくて、あくまで、パラレルワールドの自分はどうなのだろうかというような妄想。

今が自分の力で得られる最善の道だとわかっている。過去が美化されているわけでもなくて、時の経過で人が変わっていくように、わたしであってわたしでないわたしは、今日をどう過ごしているのか。単純にそれが気になるだけ。不幸であっても、普通であっても、その境遇の中で幸せを見つけられているのか。

 

人間は成長するものなのだから仕方ないのだけど、今の自分よりも確実に10代の頃は考えていないし「自分が良ければいい」というような自分勝手な人間だったと思う。他人の好意をおもちゃのように扱って、自分にとって都合のいい部分を攫っていく。でもこの件については、周りの人もわたしと同じで、わたしの甘い蜜だけを吸っていたのだからお互い様だ。口に含んだ水と共に口腔内の汚れを吐き出すように、わたしも相手も忘れるべきなんだと思う。

仮に今でもわたしの幼い振る舞いを責める人がいれば、誠心誠意謝りたい。そんな人、わざわざわたしの文章を追っていないから伝わらないと思うけれど。

 

悪いことをしたと思うけれど、あなたも悪いことをしたでしょう。

ある恋愛を振り返ると、わたしは非常に酷いことをされていたんだと思い知らされる。

当時はSNSで逐一状況を言いふらしていたから、その時期を知っている人はそんな青い過去を覚えているんだろうけれど、周りの人が嘲笑するほど悪い恋愛ではなかったし今でも責めるような気持ちはない。ただ色々、タイミングが悪かった。わたしがもっと成熟していたら。そもそも出会うこともなかったんだろうけれど、もうちょっと綺麗な恋愛だったんだろうと思う。

あなたにとっても、嫌な思い出じゃなければいいな。

 

 

綺麗に忘れられるような人間になりたい。昔付き合っていた人がこういう素敵なことを言っていたんだよね、と話されるくらいの、名前は忘れてしまったのに妙に鮮やかなワンシーンを持つ人間がいい。有益な人間じゃないから、多くの人に汚点を残すのが怖い。忘れられたり、変な人扱いでもいいから、わたしの知らないところでわたしを傷つけないでほしい。

過去のことはもう塗り替えられないから、多分今もどこかでわたしが擦り減っていくんだろう。

大事にできる人にだけ、わたしを覚えていてほしい。

 

 

どうしようもなくない

出鱈目なタイピングが日に日に早くなってきてしまっている。よくないなあ。

直さなきゃとは思うのに、面倒で直すことをしない。

 

机の上に積まれた書類も同じもの。

学校やら職場ではなんかでもらったすぐ捨てるのはいけないような紙の束が

どんどんどんどん積み重なって、重なってしまったらミルフィーユみたいに

剥がして取捨選択するのが躊躇われる存在になる。

あったらあるままの方がしっくりくるし、

無いなら無いで、まっさらが良い。

まっさらにしたら、まっさらのまましばらく維持できるのに、

1枚でも紙をふわりと乗せると、そこはもう塔の土台となる。

せっかく買った資格の本を、受けずに積む。

知識をつけて賢くなっても、埃を被せて忘れてしまうから、わたしってどうしようもない。

 

人に見られていたらもう少し頑張れるんだよ。

「だらしない」って思われたくない。

そうやって変に肩に力を入れてしまうから、周りの人にちょっと失望させてしまう。

しっかりしてそうなのにね、と言われるのは何回目だろうな。

だらしなく思われたくないからしっかりしようとしているのに、自分で自分の首を絞める。

何回やっても学習しない。自分の頭の悪さを日々痛感している。

 

 

時が経って、いつかわたしも1年目という柔らかな綿から抜け出すように言われる。

いつかがもうすぐそこに迫っているのは知っているけれど、怖いからあえて知らないふりをしている。

1年目のうちはいいけど、2年目でこれが出来ていなかったら…という類のものを身に付けないまま年次だけ重ねてしまう。

それもこれも、わたしが、わたしの心が何か重圧に耐えられなくて道を逸れてしまったのが原因で、

周りから見たらそれはそれで仕方ないと流さなきゃならないものなんだと思う。

迷惑は被っているけれど、病気なんだし、みたいな。

実際凶悪な診断がついたわけでもないし(先生自体が無理に診断名をつけるのを好ましく思っていないというのが大きいかもしれない)

それを口実に甘えるのもいやだった。自分がそんなに劣っていると思いたくないから。

 

人ひとりが出来ることの容量は決まっているんだろうけれど、

自分の浅くて小さくて、割れやすいガラスのグラスを人に故意に見せることはしたくないなと思う。

出来ないけど可愛いから許してください♡と誤魔化せるほど可愛い容姿ではないし、

そもそももう誤魔化せるような年齢でもない。

 

たくましくなりたい。強くなりたい。

先生には「血液を作る成分が足りていない」と言われ、精神を安定させる薬のほかに鉄剤を処方された。

これで強くなれればいいなと思いながら、おもちゃみたいな音のするカプセルを毎日飲んでいる。

 

強い女とは

 

弱い女、何も出来ない人間だと思わせたら負けだ。

 

自分を下に見るような人間とは、付き合っていても辛いことばかりだろうなあとぼんやり思う。友人関係の断捨離、ではないけれど、好意を持たれていないのに友人をやるのは少し疲れるなあと知ってしまった。

大方わたしの思い込みだろうけれど、丁度いいタイミングでわたしのような人のことを蔑むような発言をする人に対して、少し苦手だと感じでしまう。「一般的な話であって、あなた個人を批判してるわけではない」と言われそうなものだけれど、そういう思想を持っているということには変わりがないし、それを直しなさいなんて思わないけれど。すこし悲しいし、生きにくいなあと思う。

 

自分の存在が世界の中心のように言える人たちのことを、羨ましく思う。常に弱者とか、恵まれない人とかのことを考えて、自分がこんな状況でもしょうがないよなあと飲み込む。

でもそれって弱者から放たれる「かわいそう」という侮蔑的な雰囲気を感じ取っているからなのではないか?と思うと、自分が如何に浅はかでどうしようもない人間なのかがわかる。

弱く見られたくないのに、私だってまわりを弱いものだと見做している。それならいっそのこと自分のことしか見えてない人の方が、よっぽど立派に生きているんだ。

 

彼氏がいたら、結婚したら、子供ができたら。

果てなくゴールが設置されていて、ゴールを通過しても、またゴールが設置される。途中で立ち止まったり、違う方向へ歩こうものなら「なんで?」と純粋そうな凶器を向けられる。

きっと私も無意識のうちに他人に向けているんだろうと思うから、まるっきり全て世を憂うことができるわけでもないけれど。

 

結局わたしは普通の幸せが欲しかったりする。

一緒に暮らして、一緒に育んで、一緒に老いるみたいな、典型的な幸せ。

でもこれはきっと母や親戚が順当に普通な形の幸せを得ていたからであって、周りにちょっと変わった形の幸せを得ている人が居れば、今の幸せだって、何も不満なく享受できているんだろうと思う。

不満というとちょっと言葉が暴力的だな。自分の座標がわからなくなる、という表現が丁度いいかもしれない。遭難してしまったときと同じような気持ちだと思う。

女性は人と同じを好むと言うけれど、まさにそうなんだろうな。性別で区別するのは、と思うけれど、当てはまると思ってしまうから一概に批判はできない。「占いが当たった」と錯覚するくらいの気の持ちようなんですけどね。

 

自分の場所を、自分で信じられるように生きていきたい。

遅ればせながら、2023年の目標ということにします。

タイムマシンより

 

新たなマシンを手に入れた。

なぜこう道具が変わるだけで生まれ変わったような、旅行したような気分になるのだろう。

iPadを使えば絵が描けるしデザインもできるじゃないか、と思って手にしたはずなのに真っ先に行ったのは、いつも通り文章を垂れ流すこと。

対して面白いネタもないけれど、新しいキーボードの触感を自分の手に馴染ませるように思ったことを思った時に垂れ流す。

いつもの小さい画面だと良い感じに次の行に移るからあまり深く考えたことはなかったのだけど、こんな風に思ったことを思ったように淡々と垂れ流していると文字が横に横に、延々と伸びていってしまうのね。大層読みにくかっただろうな、と思いつつも、蛇足的な雰囲気も私らしさを表現する要素の一つなのだろうとおもって見逃してほしいと祈る。一文が長いのね私って。文章を打ち込んだらどの小説家の雰囲気に似ているか判断してくれるAIみたいなやつで言われたなそんなこと。横長に文字にしていくと、今まで時間をかけて埋めていた1,000字が如何に短いものだったか知らされてしまう。これでもうほとんど半分。1,000字はないと文章にならないと思って、なんとなくこの4年間目安にしていたわけだけれど、案外その指標は悪くないかもね。なんて自分を褒めてみます。たまにはね。

 

わたしが垂れ流す言葉は、ほとんど壁打ちで、自分のためのタイムマシンかのように扱っている。

はてなブログは一定期間経ったら「こんなこと言ってましたよ」なんて昔の記事を教えてくれる。たった1年前の記事でも自分が自分じゃないみたいでびっくりする。だから「昔こんなこと言ってたよね」って友人や恋人から言われても「え、嘘でしょ」と返してしまう。昨日の自分でさえ自分じゃないみたいに思えてしまう。人間って一貫しているようで一貫していないから、わたしみたいないい加減な人間は尚更でしょう。

 

友人が悩んだ時にわたしのブログを読んだと言っていて、そこに正解はきっとないとは思うけれど、そういう風に捉えてくれているのが少し嬉しかった。

綺麗な言葉じゃないし、非常に長々しくて退屈な言い回しばかりかもしれないけれど、心がひとりになってしまったときとかに思い出されるような文章を書けているのかな。わたしが死んだときに過剰に悲しまれたり、悔やまれたりするのは絶対嫌なんだけれど、わたしの新たな文章をもう読むことができないのかと嘆かれるのは、ちょっといいかもしれない。

上手ですってひとに言い回れるほどの能力ではないと思うけれど、文章にだけは少し拘りを持っていたい。拘りを持ち続けたい。

 

発生、変身

 

その時期には自分も生まれ変わって、今のほのかに後ろめたい人生とは縁を切っているんだろうと、無理やり希望に縋っていた。

不幸じゃないけど、幸福でもないみたいな。お腹が空いたけど、食べたくないみたいな。どうしようもない不満じみた何かを抱えて生きている。そういう性格。他人にどれだけ「考えるだけ無駄」と諭されても、自分は自分なのだから良い加減で切り替えることなんかできない。

 

 

この間、ギリギリ営業時間外になった役所に駆け込んで、2人で新しい籍を作った。

インターネットでよく見るような、大粒のダイヤの指輪とか、可愛いプリントがなされた届出とか、記念の写真とかも何もなく、必要事項が埋まっただけの書類を淡々と警備員の方に託しただけだった。

 

結局人生は劇的に変わりはしなかった。

新しい家族を作ったらまた仲良くなれるかなと思っていた人間は既に死んでいるし、届出を出すまでの過程において彼は非常に頼りないし、弟は無職だし、有給は残り僅かだし。

 

別に特別が欲しいわけじゃないのに、何処か悲しい気持ちを抱えている。

 

祝われないのが悲しいからなんとなく誕生日を隠してしまうのと同じで、見つからないように息を潜めている自分がいる。

「全然めでたくないよ」自分で何回も言い聞かせている。一生に一度かもしれないのに、みんなに祝ってもらおうなんていう気持ちになれない自分が嫌だ。捻くれている。でも彼もそんなに公にしているわけでもないし、こんなもんか。わたしってそんなもんだな。

 

名字が変わった自覚なんてないのに、自分が自分じゃなくなってしまった。

生理が始まった、人間から女になったときみたい。自分なのに自分じゃなくて、じゃあ今までの自分は?

 

 

この前の帰り道。

雪国という呼び名に恥じないくらい、もう雪が積もっている。

中学生が3人並んで歩いてるのを向こう側に確認しながら、ついそちらに気を取られて、雪の下に隠れた氷に滑ってしまった。

中学生が「あ」と言ったような気がする。丁度転んだ人を目撃したら誰だって言ってしまう。わたしは1人で相手は3人、わたしは大人で相手は子供。情けないところを見られたからか、仕事で疲れてボロボロだったからか、本当になんだかどうしようもなく惨めになってしまって死んでしまいたくなった。

 

あ、自分じゃなくなっても死にたくなるんだ。

 

人間そう簡単に生まれ変わることなんて出来なかった。今までを思い出して悲しんだり、苦しんだりすることも無くなりはしなかった。

やっぱりわたしは何処かで世界の些細な隙間に愚痴を吐いて生きるしか出来ないと思う。綺麗なものだけで部屋を埋めるとか、陽だまりの中だけで生きていくとか、憧れもしないし、なれないなと思う。

世間一般では嬉しいことも、喜ばしくないと感じてしまうし、本当にどうしようもないくらい後ろ向きで、そのために友人に嫌な思いをさせてしまうんじゃないかと一定の距離をとってしまう。

どう頑張っても変わらない。

 

 

名字が変わる前、FINLANDSという好きなバンドのライブに1人で行った。

そこで流れた「HOW」という曲を聴いて、自分でも引くくらい泣いてしまった。ライブハウスはそんな泣くところじゃないでしょう?と思うけれど、一度泣いてしまったら暫くは止められない。

正解なんてわからないけど、偶然とか雰囲気とか、そういう曖昧なものをなんとなくでも掴んでいくのが良いんだと思った。

「わたしはわたしと居ようと思う」

なんとなく刺さった言葉をお守りのようにして、これからも生きていこうと思う。

 

 

価値

 

ずっとベッドに横になっていると、自分の形に汗染みが出来てしまっているんじゃないかとゾッとする。活動をせずほぼ24時間居座る布団の汚さを感じながら、そんなものにも包まりたくなる自分の弱りを感じる。

あまり気が落ち込んでいる時に文章を残すべきではない気がする。人が読んでも不快になるだけじゃないか。それでも何か生産的なことをしなければと思って、薄い板をぽちぽちと触って文字の羅列を生み出している。文章を綴ったからといって生産性が高まるわけではない。

 

何不自由なく、恵まれた状態で生きているというのに、こうも鬱々しく暮らせる自分は何なのだろう。

自律神経が乱れているからか、薬を飲まないと微熱が出るし、何もないのに人前で泣いてしまう。明らかに自分が壊れているのに、どうしても怠けなんじゃないかと疑ってしまう。

 

やっと会社に足が向いて久々に上司と顔を合わせると、少し安堵したような表情を向けられた。私のせいで上司の仕事が1つ増えてしまっていると考えると、少し心苦しい。それでも上司は「病気だから仕方ないよ、自分を責めないで」と優しい言葉をかけてくれる。今まで私が電話にすら出られずせめてもの文字で伝えられていた言葉が、こうして肉声を通して伝わるとこんなにも優しいニュアンスを孕むのかと少しびっくりした。建前じゃなくて、本当にそう思ってくれているのかと思うと、どうしても涙が止められなかった。

 

直属の上司と、部長と、その上とも話すことになった。そこまで大々的に私のことを考えてくれているのかと思うと、感謝よりも申し訳なさの方が強く感じる。今まで何度も言っているかもしれないが、入社して数年経った力のある社員であればここまで時間を割く意味もわかる。ただ、私はまだ入社して半年と少ししか経っていない、無能な人材だ。そこまで私に投資する意味はあるのだろうか。自分でも自分に期待できないのに、他人がなぜ私に期待できるのだろうか。私に良いところが1つもないとは思わないけれど、良いところよりも悪いところの方が多いんじゃないかと考えるのは普通だ。

 

周りの人間はもっと趣味に励んで、自分のことを無駄に考えすぎないほうがいいと言うけれど、私は今までの少なくとも8年間はひたすらに壁打ちを続けるような日々だった。自分の悪い癖でもあるし、性質でもあると思う。

自分が考えることをやめたら自分じゃなくなってしまうのではないか。自分が考えることをやめたら自分の芸術的な側面が失われるのではないか。他人が聞いたら馬鹿げていると一笑するのかもしれないけれど、私にとっては酷くシリアスな問題でみんなが言うほど笑えない。

やっぱりだめだった

 

一生抱えていかなきゃいけない膿みたいな澱んだ気持ちを誤魔化しながら生きるのはいつ終わるんだろう。

手術したら治りますとか、この薬を飲んでいれば症状は出ませんとかいった絶対な安全が欲しいのに、現実はそう甘くはなくて、誤魔化す力も次第に無くなってしまった。

 

私の心の隅が暗い気持ちで染まっているのを、ずっと隠していくつもりだった。仮に何か挫けても、「頭が痛くて…!笑」なんて言って誤魔化し続けようと思っていた。

そんなこと、出来るはずもなかった。数日頭痛で誤魔化したものの、仮病くさい言い振りに自分が耐えられなくなって、連絡さえ出来なくなった。自分が怠けているだけで、普通の人は普通にこなしているのだろう。こんなことを病気らしく語ったところで甘えとしか思われないのだろう。誰も責めていないのに、勝手に自分で自分の首を絞める。ベッドから出なくてもスマートフォンで連絡くらいできるのに、そんなことも出来なかった。

振り返っても自分が怠けているようにしか聞こえないから、「しっかり療養して」という言葉が他人事に聞こえる。曖昧に笑いながら「そうですね」と口にした。

 

 

数年働いた身であれば、心を病んだのは100%会社のせいだと開き直れそうだけれど、入って半年も経たない私がそういった意味合いの面談に参加するのはおままごとのようだった。

週末に控えていたはじめての出張も、厳しいだろうと判断された。出張の日に普通に出勤すると同期や先輩が「あれ?なんでいるの?」と声をかけてくる。同期は事情をやんわり知っているけれど、部署が違う先輩はどこまで知っているのかわからないから消化不良のままなんとなく会話を終わらせる。申し訳ないというか、いたたまれないというか、その日はずっと頭に靄がかかったようなまま仕事をこなした。

 

薬を飲んで少し情緒は安定したけれど、自分の身体を管理できなくなってしまっているから37.0℃程度の微熱を抱えたまま生きている。このご時世に微熱があるというのは別の意味で不安が生じるので、どんどん心の余裕が削られていく。ただ、明確に数字に不調が表れてくれると、私が弱っているのが他人から見ても明確になるので、その点ではちょっと良かったかもしれない。

 

毎晩2錠飲み続けて2週間が経つけれど、未だに錠剤を飲むのが下手で、喉にくっついて嗚咽が漏れることも多々ある。

完治なんてないけれど、どうかはやく治りますように。うまく誤魔化せるようになれますように。