生活すること

 

いつまで明るい自分を演じ続けられるのか、自分でもわからないから極めて普通の人のフリをする。事前に自分は暗い人間だと伝えた方がいいのか、無用な心配をさせずにその時まで誤魔化すべきなのか。どちらが良いのかはその時にならないとわからないだろうな。

 

かつて、好きだった人に「俺のことどう思っているの?」と訊かれた時に、なんだか凄く嫌な感じがして、その瞬間から好きじゃなくなったような気がしたのを思い出した。彼は私が彼のことを好きだと知った上でそのようなことを言っていた。ただ反応を楽しむためのおもちゃなのだなと思った。その日別れる時に彼は「またね」と言っていたけれど、私は「うん、じゃあね」と返した。またなんて無い。

 

文通という、メッセージアプリよりも酷く不便で回りくどいやりとりが好きで、同じ嗜好を持つ友人と気ままに文を送りあっている。基本は1ヶ月に1回送るくらいのペースで、届いたら直ぐに返事を書く時もあれば、1週間以上眠らせてから封を切る時もあるくらいのマイペース。社会人になってから明らかに返事を出すのに時間がかかってしまって、少し申し訳なく思う。

文通友達は何人居てもいいので、同じ嗜好を持つ、昔からインターネットで交流している女の子を誘ったりしたこともある。向こうも手紙を書きたいと言っているのだから、負担にはならないだろうし、数回やりとりして面倒になって文通関係が自然消滅してもそれはそれで悪くないと思っていた。住所・名前を教えたけれど、一回も手紙は送られてきていない。インターネットではその子の日常が恋人や友人との楽しい話題で埋め尽くされている。それならそれで良いけれど、ずっと手紙を待ち続けてしまう気持ちだけが悲しい。

 

会社の飲み会で何度も何度も「多少は酒を飲まないとやっていけないよ」と言われ、2次会で少し酒を飲んだら案の定精神が不安定になった。1人帰路についたJRの中で声を出さずに静かに泣いた。何が悲しいわけでもないけれど、生きていけないような気がした。誰が悪いわけでもないけれど、責め立てられているような気になった。地元駅に着いて、トイレに駆け込み、鏡を見たら、少し濃いめのピンクのマスクに涙の跡は僅かにしか付いていなくて安堵した。何食わぬ顔で帰宅した。

 

前述した飲み会でコロナに罹ってだらだらと日々を送っている。こんなに休んでしまったらもう一生会社になんか行けない気がする。ただこんなに休んでいても通常通り給与は発生するのだから正社員の蜜を吸えるのは良いなと思う。わたしの濃厚接触者である母はパートなので、休んだ分だけ給与が減ってしまう。そんなにお金に困ってるわけでもないからそこまで気にしなくて良いのだけれど、もしこれでカツカツの生活を送っていたならば感染は非常に死活問題だろうと思う。綺麗事のように「お金は大量に要らない」と言えても、無くては生きていけない。きれいだけを突き通すなんてできない。

 

 

遠くの花火

 

流れる景色が夕日を塞いで、瞬きをするみたいに視界が明暗する。大きな鉄の塊に揺られながら、これから毎日同じような景色を見る。

 

高校生の頃から使っていた路線で、何も変わりはないはずだけれど、あんなに教科書が詰められていたリュックはもうないし、スカートだって上品に脚を隠してしまうくらいには落ち着いたものだ。片道20kmほどの世界で毎日を繰り返す。近い将来、会社の都合上その安全圏から嫌でも追放されるのだろうけど、まだ2年ほどは守られて生きていく。

 

こんな女はツマラナイなと思っていた典型にピッタリ当てはまろうとしている。そこに嫌悪感すら感じなくなっていく。夢だった場所へは一生行けないような気がしている。夢のままの方が綺麗だから。自分は人とは違うんだと、ただ自らの青さを武器に駆け抜けたあの頃に比べて、わたしは十分に色褪せてしまったし体力も無くなってしまった。自分の可能性がよくわからなくなっている。

それでも「どこかへ行きたい」とか「何かになりたい」という気持ちは鍋の底にへばりついて取れない焦げの様に居座っている。縁もゆかりもない外国語の勉強をチマチマ続けたり、大学で得た知識を会社で活かせるように知識を蓄えたり。何になれるのか、わからないのに頭を動かしている。思考するのをやめてしまえば死んでしまうと思っている。同じ電車に揺られているうちの何人が明日を見失っているんだろう。吊り革に掴まって揺れに身を委ねてしまうのは楽だけれど、敢えて何にも頼らず自立してみる。

 

人と比べて「マシだ」と思い始める自分は全然マシじゃない。下を見て安心したところで自分が向上するわけではない。

仕事の延長線上でも、趣味でも、自分のしたいことにもっと過敏になって生きたい。25年生きてやっと人生の短さを痛感する。「このままじゃあっという間にお婆さんになってしまう」というのは、程々に生きればどういった将来が待ち受けているかを推測できてしまうから。わたしはわたしをもっと驚かせながら生きていかないと、ひと月が、1年がもっと短いものになってしまう。

 

 

仕事の目標は置いておいて、自分の趣味の目標として、引き続き綺麗な文章を編み上げることを掲げたい。

この文章がわたしの全てだ、と思える言葉を遺して全てに片をつけたい。かれこれ5年以上はそう思っているのだけれど、まだまだ辿り着けないので、引き続き模索しようと思う。

飽きっぽいわたしだから、続けることが1番難しい。

うるさいどっかいけ

 

昔は焦がれて仕方がなかった人間がどんどん魅力的でなくなってしまう。顔とか学歴とか年収とか、どんなに装備を強化していても、最終的に行き着くのは「わたしに優しくないひと」なんだから。

 

今も昔も恋愛という曖昧で不定形なものが好きだけれど、今のそれと昔のそれは全く意味が違う。

昔は自分をどうしようもなく痛めつけるものが好きだった。後味の悪い映画が好きなのと同じで、叶わない残酷さが妙に胸に張り付くのに快楽を感じていた。陳腐な言葉で言うとメンヘラじみていた。私が相手を想うのと同等の愛をくれない人が、決まってわたしの手綱を握っていた。無責任な言葉に浮かれて盲目になっていた。

今は自分が想っているのに相手が答えてくれるその関係性が好きだと感じている。一方的な好意は無と同意で、受け止めてくれなくても私の好意をガラスケースに大切にしまってくれるような愛情が無いと価値がない・縋り付く意味がないと思ってしまう。わたしを大事にしてくれる人しか愛せない。だってわたしは有限だから。

 

自分のなかで綺麗で半永久的だったはずの思い出が色褪せてしまうのは、そういった思いやりのない相手に興醒めしてしてしまったからだと思う。

おそらく歳を重ねるとはそういうことで、年々甘味が抜けて渋くなっていく。変に現実主義者になっていく。

 

誰に言っても「やめとけ」と言われるような恋愛をしていたあの時が、今になって急に意味があるようなものに感じた。

確かにある点においてはどうしようもなくだらしがなくて、当時10代の私が手に負えるはずは無かった。私が思うよりもずっと思われていたんじゃないか。寧ろ私が好意を無碍にしている立場だったんじゃないか。今更になって申し訳なさと自分の至らなさを感じる。

みんなはその人のことをネタにして、まるでわたしの黒歴史かのように言うけど、黒歴史でしょって笑っていいのはわたしだけだし、よく知らない外野は黙っていてほしい。そんなことを言うほどその人に思い入れとか愛着はないのだけれど、それが全ての終わりで、私の何かを変えてしまったのは事実で、わたしにとって拭えない過去だ。

 

 

好意を推し量るのはもう疲れてしまった。好意があるとわからないと頑張れなくなってしまった。

これは一時期こころが疲れてしまったせいなのかもしれないし、単に自分にわがままになっただけなのかもしれない。

 

 

隣人愛が全く尽きてしまった訳ではないけれど、ヒビが入ったグラスに水を注いで、注いだ先から流れてしまうのを、悲しく思わないわけがないでしょう。

週末の拡張=世界の拡張

コンビニに行くように飛行機に乗って遠いどこかへ行く。年々最低限の自分の荷物が増えていく。化粧品の量が増えて服も嵩張るようになって、もっと気楽に何も考えず赴きたいのに、見栄とか年相応でいなきゃという気持ちが邪魔をする。それでもふと何もない週末に色をつけなきゃやっていけない。芸術に浸って、自分が自分じゃなくても済む場所に逃げ込みたい。人は好きだけど、人にわたしを知られたくはない。誰も知らないわたしで、何でもないわたしを見出したい。

 

人の多い都市に行って、誰に約束をしたわけでもないのに知人とすれ違う。久しぶりだし、顔の下半分が隠れているということもあって、何も言わずにやり過ごす。ここで「ヒラタさんですよね?お久しぶりです!」なんて言えるわたしだったら、そもそもこんな風に日常から逃げていない。それでも知ってる人の顔を見てホッとする自分もいる。完全に社会から切り離された逸れものになるのは望みではなく、自分で別離をしたという事実が重要だった。人に理解されない逃亡を肯定して共感してくれるひとは世にどれだけいるだろうか。リュックに詰め込んでいたのは一種の後ろめたさなのかもしれない。

 

銀座の伊東屋。上野の美術館。品川駅のかわいい時計に、地元じゃ買えないアクセサリー。うんちくを聞かされても全然世界は輝かないのに、それが人のためになるかのように話す人。文章や言葉は素敵なツールだけれど、それじゃ表現できないものも世にはあって、絵画を見ながら少し泣きそうになった。どんなに知った気になっていても他人は他人で、世界は世界だ。わたしが思うことも、こんな文章なんかじゃ伝わっていない。それなのに好んで読んでくれる人がいるから不思議だ。知らないところで全く違う解釈をされているのかもしれないけれど、それもそれでわたしの断片なのだと思う。醜くても汚くても、それも含めて私だ。

 

保安検査場の前で、今まさに遠くへ発とうとする人を見送る人がいる。それを横目に、わたしは足早にゲートを抜けていく。誰かと別れる時は決して後ろを振り向かないと決めている。振り向いて相手がこちらを見ていなかったら悲しく思ってしまう。そんな過保護に愛されたいわけでもないから、誰にも告げず、密かに大移動を行う。

 

小さな女の子が離陸した瞬間に「世界ってこんなに大きかったんだね!」と叫んだ。それを聞いてわたしは「それ」を求めて今まで生きてきたような気がした。幼いこどもたちの方が世界のことを知ってるんだと思う。

旅先

再生。自分を再生するために京都に行ったと言っても過言ではないかもしれない。

久しぶりに降り立つ京都は以前と全く違うのではないかと少し心配だったけれど、その心配はまったくの杞憂だったと思う。多少店が変わっていたりなどの変化はあったけれど、望んでいた京都がそこにはあった。

 

私が1つ不服に思うのは、人生で東京に10回以上行ったことがあるというのは割と普通なことなのに、京都に10回以上行ったことがあるというのは非常に気違いじみたことだと認識されること。私は京都という街が好きだし、一種私の故郷であると感じている。

京都に住んだ人間からすると、私みたいに1度も京都に住んだことがなくただただ憧れを抱いている人間は非常に浅はかな思いしか持っていないのだろうと思うのかもしれない。実際そうかもしれないから、私も大々的に言うのは少し恥ずかしいことなんじゃないかというような気さえしてくる。そういった懸念があるから私は将来京都に住みたいと言いつつも、本当に住んでしまって良いものだろうかと怯えている。

夢は遠くにあるからこそ輝いて見えるものなのかもしれない。それでも私の友人で、同じように京都のことを愛している人間は、京都に住んでもなお京都のことを愛している。

私もきっとそちら側の人間なんじゃないか。彼らを見るたびに私の心の奥底の何かがそう叫んでいる気がする。

 

学生最後に京都に行きたいと言う願望は叶えることができた。些細なことかもしれないけれど、これを達成することによって私はこれからの人生全てが丸く収まるような気がしている。

人生といっても、現段階で私の人生はたかが24年分しかない。4、50代の経験を重ねた人間から見ると本当に些細な迷いや軽微な失敗ばかりだったのかもしれない。それでも24歳の私にとって24年というのは人生の全てであるし、それを安易に他人の言葉で評価されたくない。私にとっての私の24年間は人に言えないくらい悲しいことや苦しいことが詰まっていた。楽しかったこともあるし、全てが最悪とまでは言わないけれど、最後をきれいに結ばないと自分の気持ちが消化できないような気がする。そんな呪いを私は私にかけた。

ただ、今はその呪いを解いて、学生とか扶養とかの言葉に守られた優しい世界から抜け出そうと思う。他人と比べて非常に不器用だったけど、これが成長というものだと思う。

 

多分25歳になっても辛い事は辛いし、気分が非常に落ち込んでしまう事はあるのだろうと思う。それが人間だし、「生きていく」ということなんだと解釈している。

自分で自分を世話するために私は京都に向かったんだと思う。辛くなったらいつでも思い出せるように。

不安と不調

 

昨年は頑張りすぎないように過ごしていたからか、そんなに疲弊することがなかったような気がするのだけれど、今年に入ってなんだか少しずつ憂鬱が溜まって自分で自分の調子を整えるのが難しくなったような気がする。

一昨年起こったみたいな息苦しさや目眩や微熱を抱えて生きている。昨年があまりにも調子が良かったから、その反動なのかなと思うと納得いくので何も不満はないのだけれど。最後の最後でこう躓くのが、自分らしくて、すごく情けない。

 

2月には大学の卒業制作展が行われたのだけれど、大学付近と、札幌との2会場で行うはずだったものが、感染拡大の影響を受けて大学付近のみになってしまった。やっぱり札幌の会場の方が人が集まるし、会期も長いしで重要だったのだけれど、状況が状況なのでやむを得なかった。

また、卒業制作展では卒業生でシフトを組んで在廊する形をとっているのだけれど、私は前述した自律神経の乱れからくる不調のせいでそれに参加することすら叶わなかった。

自分ではいつもの微熱だなと思うのだけれど、このご時世安易に発熱を見逃してはならないというような雰囲気があるので、仕方なかった。

仕方ないとは思うけれど、本当にこれで卒業なのか、よくわからないまま時間が過ぎている。

 

 

たしかに卒業して人生が終わるわけではないから、こんなことで安易に心を壊して休まなきゃならない状況になるよりは、タスクが減った現状はすごく好ましいのだろう。実際少し安堵した自分がいるのも事実だ。

でもやっぱりどこかで悲しく思う自分がいるのも本当だ。

 

一生懸命をすると死んでしまうだろうから、恐らく死ぬまでこんな感じで一生過ごすのだろうなと思う。一生止まらずに生きていたいのに、自分の身体と心はそれに耐えうる強度がないらしい。悲しい。

 

情けないのは自分よりも2個下(つまりは弟と同じ年齢)の人間が頑張っているのを横目に休まなきゃならないこと。本当に申し訳ないやらなんやらで死にたくなるけれど、開き直って生きるしかないなと思って布団に包まっている。

可愛いから許して~と思うけれど、果たしてその免罪符を私が所持しているのかは謎。今まで地味にいろいろ作業してきたから可愛くなくても許してほしいな。誰に許されたいのかよくわからないけど。

 

そんな感じで個人的にはガタがきていますが一通り卒業要件は揃ったので、私の人生・大学編は幕を閉じました。

卒業式の日をあまり把握してなくて予定を入れてしまったのですが、(コロナが多少でも落ち着いていれば)3月は人生最後の春休み編として京都に帰りたいと思います。

多分ね、心の不調は京都に行けば治ると思うんだよ。

感染者数がえげつないことになっているけれど、何となく許されるくらいには落ち着いているといいな…行けなければ(精神的に)死にます。

全ての道が京都に通じていますように。

尺度

歳を重ねるごとに西暦が変わる瞬間に特別感を感じなくなってしまう。そりゃあ自分にとって5回目のそれと、24回目のそれでは珍しさが違うのだから仕方ないのだろうと思う。

 

少しずつ刺激に鈍くなっていく。自分が何か失敗した時も「まただ」と第三者目線で落ち着いて分析する自分がいる。突発的に起こった悲しみや苦しみによって衝動的に死のうと思うことは減ったけれど、ぼんやりと薄寒く、死んでもいいやと思える気持ちは変わらない。幸せだから死にたくはないなんて言える日は来るのだろうか。

 

いつも何処かで躓くんじゃないかという気がする。

うまくいっていても、一瞬経つと絶望の淵に立っているんじゃないかと思う。

人間がいきなり命を失くしてしまうように、予知がある絶望は予知できないものよりも限られた数しかない気がする。

 

 

朝、まだ寝ぼけたような調子のまま無理やり冬の空を仰ぎながら通勤している。

屋根にへばりつくように生えた氷柱が朝日を浴びて煌めいていたり、真っ白な雪がオレンジ味を帯びていたり。吸う空気が新しいというのもわたしの機嫌を良くさせる。実際昨夜と今朝と何が違うのかと言われると気分なのだけど、1日の始まりの最初の最初は悪くないと思える。

 

思えばこの冷たさというか神秘さというか、言い難い寂しさは、高校生の頃からずっと変わっていない。

地方都市のベッドタウンであるわたしの町では、朝は密やかで、わたし1人がさめざめ泣いていたって気付かれないような異世界感がある。

 

以前何かで文にしたような気がするけれど、この冷たさに包まれることで、わたしは考える人間になったような気がする。文字通り「頭を冷やす」ことが出来るからなのか。

 

絶望を考えることは,それは冷ややかで後ろめたいものなのかもしれないけれど、わたしにとっては一種のリスクヘッジで、生活の知恵だ。

 

決して自分のことを幸福だとは言えないけれど、特別不幸なわけでもない。

きっとこれからどんな不運がわたしを襲っても「やっぱりね」と難なく回避して致命傷を免れたりするのかもしれない。そのために影を知る。

 

少なからず、「幸せだ」と思考停止してしまう人生よりも、今の方が良いと自信を持って言える。

わたしを憐れむ人もいるのかもしれないけれど、わたしはわたしで楽しくやっている。

他人の幸不幸を窺う暇があったら、自分がより良く生きられるような策を企てる方がよっぽど有意義だ。