タイムマシンより

 

新たなマシンを手に入れた。

なぜこう道具が変わるだけで生まれ変わったような、旅行したような気分になるのだろう。

iPadを使えば絵が描けるしデザインもできるじゃないか、と思って手にしたはずなのに真っ先に行ったのは、いつも通り文章を垂れ流すこと。

対して面白いネタもないけれど、新しいキーボードの触感を自分の手に馴染ませるように思ったことを思った時に垂れ流す。

いつもの小さい画面だと良い感じに次の行に移るからあまり深く考えたことはなかったのだけど、こんな風に思ったことを思ったように淡々と垂れ流していると文字が横に横に、延々と伸びていってしまうのね。大層読みにくかっただろうな、と思いつつも、蛇足的な雰囲気も私らしさを表現する要素の一つなのだろうとおもって見逃してほしいと祈る。一文が長いのね私って。文章を打ち込んだらどの小説家の雰囲気に似ているか判断してくれるAIみたいなやつで言われたなそんなこと。横長に文字にしていくと、今まで時間をかけて埋めていた1,000字が如何に短いものだったか知らされてしまう。これでもうほとんど半分。1,000字はないと文章にならないと思って、なんとなくこの4年間目安にしていたわけだけれど、案外その指標は悪くないかもね。なんて自分を褒めてみます。たまにはね。

 

わたしが垂れ流す言葉は、ほとんど壁打ちで、自分のためのタイムマシンかのように扱っている。

はてなブログは一定期間経ったら「こんなこと言ってましたよ」なんて昔の記事を教えてくれる。たった1年前の記事でも自分が自分じゃないみたいでびっくりする。だから「昔こんなこと言ってたよね」って友人や恋人から言われても「え、嘘でしょ」と返してしまう。昨日の自分でさえ自分じゃないみたいに思えてしまう。人間って一貫しているようで一貫していないから、わたしみたいないい加減な人間は尚更でしょう。

 

友人が悩んだ時にわたしのブログを読んだと言っていて、そこに正解はきっとないとは思うけれど、そういう風に捉えてくれているのが少し嬉しかった。

綺麗な言葉じゃないし、非常に長々しくて退屈な言い回しばかりかもしれないけれど、心がひとりになってしまったときとかに思い出されるような文章を書けているのかな。わたしが死んだときに過剰に悲しまれたり、悔やまれたりするのは絶対嫌なんだけれど、わたしの新たな文章をもう読むことができないのかと嘆かれるのは、ちょっといいかもしれない。

上手ですってひとに言い回れるほどの能力ではないと思うけれど、文章にだけは少し拘りを持っていたい。拘りを持ち続けたい。