痛みを自分のものにする

美術作品や映画や小説、何でもいいから他者を引き摺り込むもの。そういったものが自分の奥深い部分に刺さる気がするのは痛みを伴っているからだと思う。

 

わかりやすく言えば、いじめられた人にいじめが題材の何かをみせれば、いじめと関わったことのない人(いじめられた・いじめた・見て見ぬふりをしたと自覚していない人間)に比べて深く刺さるだろうし、考えることも多い。

感受性が豊かな人だと、実際経験したことが無くても想像で補って共感して刺さったりするのだろう。そういった人に対して「経験したことない癖に!」と態々非難することもない。本当に共感にしているのは言葉の端々から窺える。共感したような言葉を吐く人もいるけれど、浅はかすぎて眼中にないことが多い。

 

実際世界の多くのことは「共感したような」というだけで十分だと思う。

現代を生きる私たちにとって戦争や飢餓なんかはあまり縁がないことだし、体験しなきゃわかったような口をきいちゃいけないなんて言うと誰も何も言えなくなって、そんなこと自体無かったことになる。それが一番ダメなことだと思う。

共感できる人間がこの世にいなくなったとして、そのこと自体が世の中から全く無くなることはない。それなら上澄みだけでも共感できるほうが、優しい世界なんだと思う。

 

前述したあらゆる形で「作品」を生み出す人たちの多くは、そういった痛みを多くの人に伝播している。(全員がそうだとは言わないし、商業的にウケがいいものを淡々と作る人間もいるけれど)こんなことがあったけど、やっぱり悲しいことだよね。引き延ばして圧縮して越して装飾して、形は全然違うけれど知ってる人には知っている形が出来上がる。作品を見て思い出させることが出来ればそれは成功だし、鑑賞者にとっても痛みを思い出させる貴重な出会いとなる。

形作ることが上手くできなくて、あまり消化できずに作品を作ってしまうと、生々しくて逆に嫌がられることとなるのかもしれない。

 

大学で作品を作る人たちを横目で見てきて、そう思った。

漠然と楽しい可愛いキレイかっこいいといった「快」だけを詰め込んでしまうと、作風の好みが如実に表れるような気がするけれど、「痛み」を上手く仄めかしているものは足を止めて見入ってしまう。

だからといってこの世のすべてを痛みで構成してしまうと、なかなかバイオレンスで疲れてしまうだろうけど。

 

刺さる作品を鼻につかない程度で作れる人間は強いし、憧れてしまう。