青写真、アーカイブ

最近は全然文章を書けていなくて、思えば去年の11月がピークだったのかもしれないと思うと自分の怠惰な生活にガッカリする。

今日になって何故自分の作り出す話を思い出したのかというと、友人に披露する機会があったからだった。披露というか、お詫びというか、お礼というか、そんな形のものなのだけど、自分が思っている以上に相手は満足していたみたいでホッとした。

 

1年前に書いたものについて、自分でもあまり記憶がない。大体の流れだとか、構成だとかは覚えているけれど、今見返したら拙過ぎて見られたものじゃないんじゃないかと考えてはページを捲れずにいる。だからこそ今になって友人に見られるのは本当に半分自暴自棄だった。

 

人に見られるために、見せるために綴ったのに、すごく矛盾しているなあと自分でも思う。

 

結局私は救われたのか。文章にすることで私の中の毒素が少しずつ抜けていく感じはするけれど、果たして本当に救われているのか。それは実際のところNoである。文章を書いても自分の湿った部分は乾くことなく、寧ろ根を伸ばし続けて、よりしぶとく私に執着している。黒い部分も汚い部分も私なのかと思うしかない。

 

私がこんなに文章をしたためて何になるというのだろうか?今のところ、(全く文章を書かない人間よりは見られているとは思うけど)特筆するほど人に見られているわけでもない。ただ少し、文章でお金を取れるくらいには思考しているのだろうけど。そうは言っても情けかもしれないし好奇心かもしれないし、文庫本を何万も刷ってもらったうえでお金を頂いている職業小説家とは全然違う立ち位置である。

言ってしまえばカケラも自信がない。

 

SNSで垂れ流す文章で共感を得られても、それって実際どの人間でも当てはまるような当たり障りないことを並べてるからであって、何か革新的であるとか、奇抜であるとか、そういった部分は一切ない。言葉選びが好きだと言われていても、それは単に選別する話だから大したことをしていない。

考えれば考えるほど、なんとも言えない気持ちになる。

 

 

この世で文章を書く人間はごまんといて、そんなうちの1人である私は今現在怠けたりなんだりしていて、それで一体なにかを得られると思えるような阿呆にだけはなりたくない。

呟く1つひとつの言葉をもっと大切にできる人間になりたい。苦しくても常に思考していたい。早く死んでも良いから、無駄がないように生きていたい。努努怠けてなんかいられない。