知と自由への誘い

最近は安易に甘いものを取り入れてしまう。罪深い。

 

そういえば昨日は知り合いの博士と共に牡蠣を食べたりラーメンを食べていました。 昨日といっても書いている間に時間軸がずれるので正確な昨日ではないです。書くことに意味があって、記録することは至極どうでもいいと思っているからです。

高校生の頃は博士の人と知り合いになって一緒にご飯を食べに行くなんて予想もしてなかったので非常に面白い人生だと思う。博士なんて絶対非日常な存在だ〜と思ったのに、話してみると普通に普通で拍子抜けしてしまう。(もっと言うと私が想像する博士像よりも断然若いのです…恐ろしい)

私自身受験数学も得意とは言い難いような人種なので、博士とコネクションがあるのは物凄く物凄いことだと思う。他人との繋がりを自慢するのはあまり誇れないなあと自分で思うけれど、あまり他人に出来ないことなのだから、この能力は物凄い。やったね。

 

私が学ぶ人を好きになったのはいつからだったかもう覚えていないけれど、中学3年生の時に同じクラスだった小林くん(ありふれた名前なのでそのまま使ってしまいます)に尊敬の意を抱いたのがはじまりだとは思う。

それまでは単純に「勝ったものが強い」の原理で「点数を出した人が賢い」と思っていたから、私より下の人はその程度で、上の人は怠ければそれまでだと思っていた。星の王子さまを読んでいた割に、数字に固執した中学生だった。

私がいつどのタイミングで小林くんを尊敬したのかは覚えていないけれど、彼のすごいと思うところは「わからないことをわからないと言える」ところだった。

私はわからない部分を質問しに行くのが苦手だったので、わからないと直ぐに「先生、」と声を発せる小林くんは美しかった。自分の知に純粋に生きていると思った。わからないことは恥ずかしい事だと微塵も思ったことのない顔で友達のノートやら黒板やらを凝視する彼は、人間だと思った。しなければならないから勉強をしているわけではない、と言っているようだった。

具体的に何がどうとは言えなかったけれど、彼は絶対後々急に頭が良くなるし、私なんかよりも遥かに知識を蓄えるだろうと悟った。

それが本当になったか否かは定かではないけれど、偏差値で測れない賢さはきっと彼の方が上であると思う。今でも思う。

悲しいけれど、そこで根本的に負かされてしまったからこそ学ぶ人には敵わなくなってしまったのだと思う。学ぶ人は無条件で好きだ。悔しい。

 

ペンギン・ハイウェイの映画化が決まった事で、そんなことをふと思い出してしまった。

あの頃は自分が最強だと思っていたし、勉強に時間を費やせば見合った量の対価が貰えると信じていた。自分は勉強が好きだと思っていたし、向いてると思っていた。

今の自分はどうだろう?勉強に縋っている、という表現の方が正しいのではないだろうか。

学べばその分の自由が得られるし、自由を得るためには学ぶことが必要だ。

学ぶことは自分の可能性を押し拡げることだと、今一度思い出してほしい。

学んでどうするんじゃない、学ぶことを目的とする自分に、今一度戻ってほしい。