安易に自分を他人に重ねるな

安易に結婚して安易に離婚するとか、そういった話ではないけれど、人様の夢に自分も添い合わせて中途半端に人様の庭を荒らしていくのはやめてくれ。

 

これは私が物凄く心が狭いだけなのかもしれないけれど、大切に大切に育ててきた庭を土足で踏み荒らされるのは悲しい。

私が何を思ってこの木を植えたのか、何を思って雑草を抜いてきたのか、知っているのかと。

そりゃまあ荒らしたのが自分の子供であったり恋人であったりするのなら、多少は許せるだろう。盲目になるから、甘い注意の言葉くらいで終わりだろう。寧ろ同じ世界を共有できて嬉しい、なんて思うだろう。

だけれどそれは相手が自分の手中にあるときだけの話であって、そうでない時はあまり好ましいと言えない。

 

私は心が狭いから、私の世界は私だけのものにしたいと思う。誰にも犯されず、自分だけがその世界を知っていたい。

 

 

あまり言うと具体的な話になってしまって、それこそ具合が悪くなってしまうので慎むけれど、そういうことです。

 

好きなものが好きじゃなくなる悲しさは大いにあるけれど、原因はほぼ私ではないところにあるし、私が責任を感じたり後ろめたく思う必要は無いと思う。今はただ、私の道と相手の道が重ならないように祈るだけ。私は私で夢を叶えるためにやることをやっていればいいと思う。

 

昔からおてて繋いでゴールといった案件が苦手だ。

私はこうしたいというビジョンがあるのに、「じゃあ私もそれにする」って本当に考えて話してるんだろうかと軽蔑さえしてしまう。言わないけれど。貴方は自分の道すら自分で考えられないんだね、私みたいな卑小な存在に揺らぐくらいの道なんだね。そう思って生きてきた。

 

なんだかんだ今でも親しくしている人たちは、自分で選択している人だと思う。きちんと意味を持って日々を過ごしている人だと思う。

何もないに甘んじないで、自分を見つめている人だと思う。だから一緒にいて気持ちいい。

 

まだ私は学生だからと思考することをやめて微温湯に浸かる気持ちも本当はわかる。ある意味私も微温湯に浸りきっているのかもしれない。ひたすらヌクヌクとして気持ち良さに身を委ねているのかもしれない。

でも私は頭だけは外気に晒されてクリアな状態でいたいと思う。

北海道の無駄に寒い冬は、思考に適している。つまりそういう理由で私はここに生まれたのだな、と最近は思う。

冷たく覚めたところで考えることこそ真だ。

だから私は家から駅まで、駅から学校まで歩くことを厭わないし、寧ろ恵まれているとも思っている。私は思考する、思考するから人間だ、という安心感。

 

何が正しいのかは死なないとわからないのかもしれないけれど、私は安易に他人の真似はしたくない。真似と模倣は別物である。

低次な世界を切り捨てて、私は私を歩いていきたい。

微睡みの中からお送りしました。