家と居候とお泊り

最近は頻繁に東京に行く機会があって、そのたびに緊張して疲弊して早く帰りたくなってしまう。元々は家に帰りたいという気持ちが薄いのだけど、帰る家が変わったからか、家への愛着が湧いた。

 

最近は居候をしています。あまり実家にいられる心持ちじゃないから。

ある少数の人は「恵まれているのに何故親に感謝できないのか?」と怒ります。説明する気力もないし、わからないならそれでいいから、私は考えることを放棄しがちです。

それもそれでストレスになっているのかな。

 

実家に帰ったら、「ただいま」と声を振り絞って、玄関の電気を消して、2階の自室に真っ直ぐ向かう。勉強机のまえで荷を下ろして、椅子に座ってやっと深く呼吸をする。

そんな感じで私にとっては居心地の悪い空間です。いつからこうなったのだろう?なんのせいでこうなったのだろう?と考えると、無限に悲しくなれちゃうのでやめておきます。自己肯定感が低いから、誰より自分の薄命を理解していると思う。

 

話は戻って東京。

ひとの家に泊まる行為を繰り返しています。申し訳ない気持ちはあるけれど、あまり一人でいられない精神状況なので、泊まらせてくれる友人には毎回深く感謝をしています。

昨日の投稿のように、わたしは同性に対して邪な気持ちが完全にないと言い切れません。それを知ってか知らずか泊まらせてくれるというのは、個人的に認められた気がして凄く安心するものです。

わたしだって好みがあるし見境ないわけじゃないけれど、変に誤解されているわけじゃないかな、と思うと少し楽です。

 

文字に起こすと整理がしやすいですね。

きっと最近の憂鬱はわたしの性癖に由来しているのでしょう。思えば小さい頃から一般の人との隔たりを感じていました。原因は心構えというか、捉え方のせいなのでしょう。

同性でも触れることに恥ずかしさを伴うような抵抗があるし、友人との仲が少しでも乱れると嫉妬に近いような怒りを感じています。それがおかしいということもわかるから、行き場無くグルグルと考えを巡らせる毎日です。

 

自分の在り方、接し方を考えないと、東京という人の波に呑まれて消えてしまうんじゃないか。波に乗って、それを楽しむ自分をあまり想像できません。

本当は、人の少ない南国で、誰もみな家族同然の振る舞いをするような集落で、畑作業をしながら自給自足のギリギリな生活をする方が心に良いのかもしれません。

ただ未だに、コンプレックスかのように、自分の力を信じたい自分がいるのはどうしようもないですね。