歳を重ねるごとに西暦が変わる瞬間に特別感を感じなくなってしまう。そりゃあ自分にとって5回目のそれと、24回目のそれでは珍しさが違うのだから仕方ないのだろうと思う。
少しずつ刺激に鈍くなっていく。自分が何か失敗した時も「まただ」と第三者目線で落ち着いて分析する自分がいる。突発的に起こった悲しみや苦しみによって衝動的に死のうと思うことは減ったけれど、ぼんやりと薄寒く、死んでもいいやと思える気持ちは変わらない。幸せだから死にたくはないなんて言える日は来るのだろうか。
いつも何処かで躓くんじゃないかという気がする。
うまくいっていても、一瞬経つと絶望の淵に立っているんじゃないかと思う。
人間がいきなり命を失くしてしまうように、予知がある絶望は予知できないものよりも限られた数しかない気がする。
朝、まだ寝ぼけたような調子のまま無理やり冬の空を仰ぎながら通勤している。
屋根にへばりつくように生えた氷柱が朝日を浴びて煌めいていたり、真っ白な雪がオレンジ味を帯びていたり。吸う空気が新しいというのもわたしの機嫌を良くさせる。実際昨夜と今朝と何が違うのかと言われると気分なのだけど、1日の始まりの最初の最初は悪くないと思える。
思えばこの冷たさというか神秘さというか、言い難い寂しさは、高校生の頃からずっと変わっていない。
地方都市のベッドタウンであるわたしの町では、朝は密やかで、わたし1人がさめざめ泣いていたって気付かれないような異世界感がある。
以前何かで文にしたような気がするけれど、この冷たさに包まれることで、わたしは考える人間になったような気がする。文字通り「頭を冷やす」ことが出来るからなのか。
絶望を考えることは,それは冷ややかで後ろめたいものなのかもしれないけれど、わたしにとっては一種のリスクヘッジで、生活の知恵だ。
決して自分のことを幸福だとは言えないけれど、特別不幸なわけでもない。
きっとこれからどんな不運がわたしを襲っても「やっぱりね」と難なく回避して致命傷を免れたりするのかもしれない。そのために影を知る。
少なからず、「幸せだ」と思考停止してしまう人生よりも、今の方が良いと自信を持って言える。
わたしを憐れむ人もいるのかもしれないけれど、わたしはわたしで楽しくやっている。
他人の幸不幸を窺う暇があったら、自分がより良く生きられるような策を企てる方がよっぽど有意義だ。