資格と自信

 

就活を通してわたしが自分に足りないなあと思ったことは「これをやりました!」という実績がないことでした。

特に私の大学、私のキャンパスは実技系の人が集まるところだったので、大会での記録だとかなんとかコンクールなんとか賞受賞だとか展覧会の経験が無いというのは自分の自信を失う要因の一つでした。全く自分のスキルの誇示となるようなことをやっていないわけでは無いですが、「人と違う」というのは自分で自分の良さを探してそこをピックアップする能力がないと不安を煽ってしまうものだと思います。

そんなことで前年の就活では展覧会の運営を頑張ったということをゴリ押ししてきましたが、あまり自分の自信には繋がらないような気がしました。私にとって「何か企画の運営をする」というのはできて当たり前のものだと考えているからです。わたしは高校時代に生徒会長を務めていたことがあり、その業務の一環として学校の行事運営などを行なっていました。高校でやっていたことだからみんなできて当たり前でしょう、大してスゴいと言えるものでもないでしょう。就活で話すことなんてみんな誇張だったりするでしょうに、後ろめたさを感じてダメでした。

 

そんな感じで1度目の就活の年を流してしまったのですが、自分のメンタルヘルスを少しでも向上させるために休み続けていても翌年自分の無力さにまた気持ちを悪くするのだろうと思ったので、秋からですが、徐々に資格について考えていました。

父が亡くなったことで遺産整理を行うことになり、相続税やその他生活にかかるお金の存在を知りました。私はお金というものがすごく苦手なので(大して欲がないのでバリバリ働いて稼ぎたい!という気がないのです)その時初めて知ったと言っても過言じゃありませんでした。将来1人暮らしをする際、というか会社員になった際にこういうことを知らないととてつもなく損をするのではないか?と怖くなりました。

そんな経緯でまずはファイナンシャルプランナーという資格を知ったわけです。1月24日に試験があってちょうど3ヶ月前とかだったので勉強したわけです。

 

資格勉強を通して、わたし自身が試験勉強が好きだから資格勉強に向いていることを痛感しました…。

そして「勉強する」という、大学生が評価されにくいところをわかりやすく評価できるように示されているのが助かるなあと感じました。勉学頑張っていました!というだけじゃ抽象的すぎて伝わらないので…。

 

実際面接官がそこまで保有資格に注目しているとは思えないですが、自分に自信を持てるという意味で資格はいいなと思います。無駄に受験にお金がかかる資格は微妙ですが…

 

今年の就活は少し自信が持てると良いなあ。

わたしと薬の話2

前回の話→わたしと薬の話 - クモニマゴウ

 

前回同様少し生々しい話になってしまいますので、自信ない方は読むのをお勧めしません。

自身の服薬記録を兼ねています。

 

 

2020年5月ごろからルナベルの服薬を開始したのですが、「これで生理痛が治る!やったー!」と手放しで喜べるわけではありませんでした。

ピルにもいろいろ種類があるのですが、それというのはホルモンの含有量の違いだそうです。よくわからないけれど、初めに処方されたルナベルというお薬は1番オーソドックスなもののようです。

わたしは夜の22時くらい(布団に潜り込む前)に薬を飲む習慣をつけました。LINEの服薬サポートを使うと毎日22時に通知が来るのであまり大変なものではありませんでした。

しかし、服薬を初めて最初の3日間程度、夜中の吐き気がものすごいことになっていました。アフターピルを飲んだことがある人はわかるかと思いますが、体質を変えると言うのは結構な負荷がかかるらしい。気持ち悪い!と思って吐ければ良いのだけれど、あまり服薬から時間が経っていなさすぎると薬を飲んだ意味がなくなってしまうので良くないし、かといって吐かずに吐き気を止めるというのも難しいことです。

 

1シート目は取り敢えず吐き気に耐えながら薬を飲み続けましたが、3日が過ぎて以降も若干の吐き気を抱えて生活することが多かったのでこの薬はわたしに合っていませんでした。

肝心の生理中は全く痛みもなく、経血量もごく少ないもので済んだので「薬」としての役目は果たしているようです。生理中は休薬期間なので、服薬中よりも快適に暮らすことができました。

痛みが耐えられなくて飲み始めたピルだけど、経血量が少ないというのは凄く良い!7日間の生理のうち5日間くらいは出血祭が開催されて、日に3回以上はナプキンを変えないと心許なかったのだけど、ピルを飲み始めてからというもの経血量で言えば1日1枚昼用のものを使うくらいのものになりました!日用品と考えるとナプキンも安いものではないので使用枚数が減るというのは経済的にも助かります。お薬代が高いから結局マイナスですが…。気持ち的には朝起きた時にお尻あたりで経血が漏れてないか心配しなくてよくなったのは凄く快適です。服汚すくらいならまだマシだけど寝具汚すとマジでめんどくさいので!

 

お医者様から処方されたのが3シートほどだったので、取り敢えずは薬がなくなるまでルナベルを服薬し続けました。(吐き気に耐え難い人は合わないと知ったら直ぐ処方し直してもらった方が良いのでしょうね…面倒臭さが勝ちました)

2シート目に入って吐き気の耐性ができたかしら、と思ったのですが、そんなこともなく夜中はやっぱりしんどい日々です。活動をしていたら気にならないのかもしれないけれど、横になってから「あーやっぱ気持ち悪いや」って気付くやつ、ありますよね?それです。

 

そんな感じで5、6、7月は吐き気と戦いながらルナベルの服用を続けました。最初に処方された薬が合う人は恐らく1番安く済むと思うので凄い恵まれてます…。

 

おそらく続きます

自分の道は他人が示してくれる

 

23年生きてきて、自分を鑑みれば鑑みるほど自分が選択したことって少ないんじゃないか?というような気になる。

高校も大学もその他バイトなんかも趣味嗜好とかも。人間やっているんだから社会に干渉されて自分が形成されるなんて当たり前だとは思うけれど、自分から選びましたって胸を張れることなんて無いんじゃないかと不安になる。

 

「主体性がない」というのはよく新人研修などで言われたりするけれど、そんなにわるいことだろうか?と開き直りたい。全ての人間が誰にも干渉されずにgoing my wayしてしまうなら激しく摩擦して殺伐としてしまうんだろう。きっと。

 

23歳にして2回目の就活だけども、考えれば考えるほど自分が何をしたいのかがよくわからなくなる。

気持ちはクリエイティブで切磋琢磨できるようなことをしたいと思うけれど、たった数ヶ月(インターンも含めばそれ以上なのだけれど)頑張っただけで折れてしまったわたしにそんなことができるとは思えない。地道にコツコツ積み重ねるような仕事の方が向いているんじゃないかと思う。

でも実際働いてみないと向き不向きなんてわからないし、取り敢えず職につかなくちゃならないのかなと思う。浪人を経験した身で言えば取り敢えずで進路を決めるってどうなんだろうと思うけれど、学生と違って会社員になることはお金をもらう側なのだから、そんなに神経質にならなくてもいいのかなあ。よくわからなくなってきてしまった。

 

わたしはあまり人に相談しない性格なのだけれど、仲良い友人はわたしが悩んでいそうなのを察して「こういう風に生きるのがゆいには合うと思うよ」と言ってくれる。有難い。

大抵その言葉はすごく腑に落ちる。確かにわたしってそうういう人間だったかも。第三者が見るわたしの方が確からしいと思う。わたし自身、自分に対して卑下をしてしまったりすることが多いから、良い部分を見てくれる第三者の方が向き不向きをわかってくれている気がする。

一応補足すると、友人の言うことを全て鵜呑みにしているわけではない。友人のことを尊敬していて、信頼できると思うから信用できるのだと思う。そういう友人がいてくれて本当に恵まれているな。

 

不器用でコツコツやることしか取り柄がない割に、自分を過信して「何かを生み出せたら」「誰かの手助けになれたら」と思ったりする。働き始めたらこういう純粋な気持ちとかも無くなってしまうのだろうな。

自分の意思は揺らぎやすいから、悩めるときに悩みまくろうと思う。友人は道標だ。

 

青春が過去になってしまう

 

嵐がいない世界を生きる覚悟は出来たけれど、数年経って小中学生が「嵐というジャニーズのグループがあったらしい」という認識で嵐を知る世界で生きていける自信がない。

 

わたしは1997年に生まれ、1999年に彼らがデビューした。物心ついた時には嵐は十分すぎるくらいに国民的アイドルで、例に漏れずわたしも嵐ファンであった。

何がきっかけかというと、小学校高学年から中学校にかけて来るだろう男性アイドルブームに乗っただけである。特別何かで好きになったわけでもなく、周りとコミュニケーションをとる上で重要だと思ったので「嵐が好きだ」と言っていた。

多分どこでもあるでしょう、異性や恋に目覚める時期。そんな時に男性アイドルブームが来ると思っています。わたしの周りではそうでした。

すごく熱心な子はお金を払ってファンクラブに入り、ジャニーズショップに行ってはブロマイドを買ったりしていた。パソコンを立ち上げることさえ億劫に思っていたわたしはインターネットを駆使して課金することは思いもつかなかったし、何より周りに乗じてファンになっているようなものだったのでほぼ無課金ファンだった。

それでも嵐は偉大な存在なので「嵐の宿題くん」や「嵐にしやがれ」、「VS嵐」など無料でご尊顔を拝めるコンテンツが充実していた。テレビの内容も家族みんなで楽しめる内容だったので、チャンネルを支配しても文句を言われなかった。国民的アイドルっていいね。

 

そんな風に中学までは嵐に浸かった生活をしていたのだけれど、高校に入ってからはあまりテレビを見なくなったのと周りに熱心な嵐ファンがいなくなったことでわたしの中の熱も冷めてしまった。TVで見かけたら「ニノは可愛いな〜」と思うけれど、自分から熱心に追うことは無くなった。それでも本業は歌って踊る方なので、店の中だとかCMで嵐の曲を耳にしてはいた。積極的に寄り添うことをしなくても私たちに寄り添ってくれている。本当に国民の宝じゃないかと思う。すごいよ。

大学生になってからは高校以上にTVから離れてしまって、嵐の存在も忘れつつあった。

大学生2年生のころに今の恋人と付き合ったのだけれど、最近になってお互い嵐の曲をよく聴いていたことに気付いた。彼の妹も嵐ファンだったらしい。それを聞いてからというものよく嵐を聞き返すようになった。

 

 

アルバイトをしていると自分より10も歳が離れた子供と話すことがあるのだけれど、その子たちは(当たり前だけど)YUIを知らない。

わたしにとってはYUIも青春の1ページを飾るアーティストなのだけれど、現在もコンスタントに曲を提供してくれているわけじゃないから風化してしまう。「指先で送る君へのメッセージ」と言ったら伝わるかもしれないけれど、確実に昔の人なんだなと思われるだろう。

仕方ないけど、休止がずっと続くのであれば嵐もそういう風になっていくんだろうと思う。切ないけれど。人は老いるし、流行は目まぐるしく変わっていく。わかっているけれど、少しずつ朽ちていく様はこっちまで切なくなってしまうからどうしようもない。

 

 

これからも個々で応援したいとは思うし、あわよくば再集結して一夜限りでもパフォーマンスしてくれないかしらなんて思うけれど、あの頃の輝きはもう失われたものなんだろうな。

わたしも、彼らも、世界も、少しずつ変わっていく。

わたしと薬の話

 

ちょっと生々しい話をするので苦手な人は「あれ?」と思った時点でお戻りいただければ幸いです。

 

わたしは昨年・2020年5月から低用量ピルの服用を始めました。

それ以前も少し飲んだことはありました。出血が頻繁すぎる(2週に1回生理が起こる)という理由で服用を続けていましたが、今思えば子宮自体より心の問題が大きく、ある時期を過ぎてから気にならなくなったので服用をやめました。

今回飲み始めたきっかけは生理痛が少しずつ重くなっていったこと。丁寧に綴るなら、排卵日から数日、生理が始まる1日前あたりからの生理痛、生理が終わってから5日間ほど卵巣あたり(素人の感じ方なので実際どうなのかはよくわかりません)が痛むようになりました。そのせいでひと月のうちの半分はベッドで過ごすことを余儀なくされていました。精神的に弱っていたこともありますが、痛過ぎて就職面接を蹴ったりもしました。そんなレベルで生きていました。

 

生理痛で体育休むって大袈裟じゃない?と高校生時点で思っていましたが、症状が重い人にとっては学校来ただけで超偉いレベルです。まあ「症状が重い」というだけで正常ではないということなんですが、TVで「痛みに負けるな!」なーんて宣伝されている社会において、その程度で病院に行くなんてと思われるのは仕方のないことかと思います。無知を恥ずべきだとも思うけれど、生理用品のCMも生理痛に対する鎮痛薬のCMも深刻な様子をしていなくて、みんな笑顔でなんなら踊り出してしまうのだから、仕方がないことかなあと思います。

 

病院に行ったのは4月末だったかと思いますが、その時は生理でもないのに右卵巣あたりが痛くて、車で病院まで向かった記憶があります。痛過ぎて血の気が引いて貧血みたいになっていました。死にそうなのにそこそこ待たされ、辿り着いた先で「典型的な症状の出方ですね〜」と緩く返された。死にそうになりながら撮ったエコー写真には血の塊であろう黒いものが映し出されていた。チョコレート嚢胞?というやつらしいけど、精密な検査をしていないのであくまで「チョコレート嚢胞だろう」という見解らしいです。今文字にして改めて思ったのだけれど「だろう」で良いのか?

とりあえずその日は(たしか)ルナベルという1シート1300円くらいのピルを処方され「次の生理終わりから飲んでね」と言われました。生理痛がひどい時はどうしましょう?と問うと市販の鎮痛薬で十分だと言われました。そんなもんか。貧血がひどいのはなんなのか訊くと、痛みが酷過ぎて血の気が引いてるだけだよ(ようは気の持ちようだよ)と言われて恥ずかしさだけが残りました。大袈裟すぎるのでしょうか…。

 

そんなことで5月から服用をスタートしたのでした。

多分続く

サウンドトラックになるような

 

初めて聴いた音楽なのに、耳馴染みが良くて何か懐かしいような気がする。そういう音楽って自分にとって何曲かはあるものだと思う。

好きなアーティストの新譜は耳を曲に合わせるように聴くから、振り返った時に耳馴染みがいいように感じられるし、その曲を熱心に聴いていた当時を思い出せる。

わたしが言いたいのはそうではなく、いうならば自分という映画においてのサウンドトラックに使えそうなもの。音楽を聴くという感覚を超えて、音楽に浸かるような感覚。

 

snsで知り合った友人と会う際に、わたしは地元のお土産を、彼は自分がいるバンドのCDを持ってくるというような約束をしていた。

初めて会ったけれどsnsで話していたからかそんなに緊張もなかった気がする。彼の玉虫色のコートが凄く綺麗だった。北海道とは違う暖かな光があるせいで、冬だったのか春だったのか、はたまた秋だったのか、あまり自信がない。

わたしは持ってくるのを忘れたのか、買うのすら忘れてしまっていたのか、取り敢えずお土産を渡せていないことに解散してから気づいた。彼も同じでCDを持ってくることを忘れていた。一方的に忘れてしまうのは情けないので、彼も忘れてくれていて良かったなと思った。

 

先日フォローフォロワーの整理をしている時に、件のバンドのアカウントをフォローしていたことを思い出した。(わたしはフォロー数が多いので意識的に見ないと見飛ばしてしまう情報が多い。一つひとつを重く受け止めたくないのでわざとやっている。)

以前はCDでしか音源がなかったのだけれど、今はApple Musicで聴けるらしい!

すごく嬉しくなってすぐにライブラリに追加した。追加したものの最近家では音楽を聞かないのでちょっと寝かせておいていた。どうせ明日出かける用事があるし、その移動中に聞こう。そう思った。

 

映画

映画

 

音楽について詳しいわけでもないので、何が素晴らしいかとか何が特徴的なのかとかは語れない。是非一度聞いてみてほしいと思う。

昼下がりから夕方に近くなってちょっと霞んだり和らいだような空を見上げている時の気持ちみたいな、わたしにぴったり寄り添ってくれるような曲たち。何か昔に考えていた大事なことを思い出しかけそうな、そんな雰囲気。わたしは結構好きだった。

 

丁度今みたいな時間が心地いい気がする。

滅多にしないオススメでした。

繋がりと断捨離

 

SNSの波に乗っていると嫌でも他人の生活が覗けてしまう。結婚したとか、転職したとか、進学が決まったとか、猫を飼ったとか。微笑ましい報告や、目を背けたくなるような報告、様々な情報に溢れているので、それらと向き合うたびに自分の心の動きを抑えたり落ち付けたりするのに慌ただしくなってしまう。

いい話だとこちらも楽しいのだけれど、刺々しい言葉を放つ人には少し疲弊してしまう。SNSは基本的に好きな人・見ていたい人を(名前通り)フォローするのだと思うのだけれど、世の中には人を嘲笑いたいとかそういう気持ちでフォローする人もいるらしい。

 

わたし自身のTwitterは少し鼻につくような存在だと思うので、フォロワーに私を笑う人がいるのだろうと思っている。思っている、というか確実に存在している。

その存在が個人を感じられないような如何にも捨てアカウントならば、私は気にならないのかもしれない。(人によってはそういう捨てアカウントでさえも疲弊してしまうので、訓練の賜物というか、いい意味で鈍感に育っているのだと思う。)誰でも嫌いな人とか苦手な人はいるだろうし、ふと思い出して存在を確認して「やっぱりこいつは変わらないな」と人を蔑みたくなる気分の時もあると思うので。

 

私がすごく嫌だなあと感じるのは、悪意をむき出しにする個人なんだろうな。

わたしが本名も知っているのに、どういう所属で、どういう趣味があるとかも知っているのに、何故その人はわたしのこと(他にもその人が嫌っているであろう人のことも)をフォローし続けた上で悪口を匂わせるんだろう。

 

でも私も私で、ブロック→ブロック解除をしてフォロワーでもフォロイーでも無くなったことを相手に悟られたら相手にまたぐちぐち言われるのかしらとか考えてしまって何もすることができない。

精神衛生のためにミュートにはしていて、たまに覗くくらいなのだけど、買い物したとかご飯作ったとかの内容は楽しく読めてしまうからこそ時々発される悪口みたいなものに幻滅してしまう。もうそれなら関係まっさらにしてもいいじゃないかと思うけれど、Twitterだけでなく他のSNSもフォローされているのでなんかすごく気持ちが悪い。自分がちょっと嫌だなあと思うくらいで関係を絶っていいんだろうか。

多分お互いに絶ってもなにしてもいい存在であるだろうことはわかっている。実際によく会う人間であれば「こういうのはやめたほうがいいんじゃない?」って注意して改善するか否かで決められるのに、SNSだと段階を踏まずに0か1かだから心苦しい。

 

こうやって悶々悩むのも人によっては無駄なんだろうな。人間関係の断捨離は難しい。