非日常の日常化

「今年の目標〜」でも語ったけれど、最近の私は特別用事がなければ1日10時間睡眠を心掛けている。大雑把にいうと24時に就寝して10時に目が醒めるような日々の連続。丁寧じゃないので26時に就寝して12時に起床ということもあるけれど、疲労感が少ないのできちんと休めてはいる。

先日「新年初悪夢」で妙にリアルで嫌な汗をかく夢を見たのだけど、それからというもの、なにかしら夢を見ている。眠りが浅いということだろうと思うけれど、実害は無いような気がするので特に深くは考えないようにしている。気にした方が眠れなくなってしまうので。

夢といえば、今日はアイドルが自分の大学にロケに来るというようなものだった。面白かったのが夢の中のアイドル達もマスクをしていたこと。そして、間違って手が触れた瞬間に「アルコール消毒しなければ!」と考えていたこと。

 

マスクが当たり前の世界になって、1年が経とうとしている。

昨年2月くらいからコロナウイルスの脅威を感じてマスクやアルコールジェルを購入して装備していた。就活で東京に赴き、空港で慌ててマスクやアルコールジェルを買った。マスク品切れ・消毒用アルコール品切れになる直前のことだったように思う。たしかあの時はまだ面接にマスクが義務ではなかったんじゃないか。写真を見返してもマスクなんかしていなくて、少しびっくりした。

 

私はマスクをしてもそんなに不便はないのでもちろん外出時は常に装着しているけれど、肌の弱い友人は肌が荒れたりかぶれたりするそうで可哀想だなあと思う。わたしも幼少期はアトピー持ちだったので皮膚のトラブルの辛さはよくわかっている(つもり)。

マスクが国内で不足している時は布マスクも許されていたけれど、今は不足しているわけでもないので不織布をすべきという考えの人が多いと思う。雪国を生きる私は地元(駅前くらいしか人通りがない車社会の田舎)で外を歩くときだけ、未だに布マスクを使っている。不織布でもなんでも、外を歩くとベチャベチャになってしまうので…。友人のアドバイスを聞いて不織布の上から布マスクをしてみたりもしたけれど、結局濡れてしまうものは濡れてしまう。例えるならばマスクの中で鼻水ダラダラになって鼻周りだけちょっと透けたマスクになるみたいな気持ち悪さ。外出すると毎回2枚不織布のマスクを消費するのは勿体無いので、布を使ってしまう。どうせ外だから換気十分だし許されたい。

 

マスクをする・しない、不織布か布かウレタンか、など人によって許されるボーダーラインが違うから難しい。

結局正解はどれなのかというのは置かれた状況によって違うのでなんとも言い難いとは思うけれど、わたし個人としては自分の身を守るためというよりも他人の身体・心をいたわった選択が出来ればいいと考えている。

 

新年初悪夢

今日の夢、すごく最悪だった。

 

わたしは高校生でその日は夏休みを少し過ぎた感じの日で、今日から講習があるらしかった。

ひどく怠けていたわたしは講習サボってしまっても良いかしらなんて、間に合わせる気がないように支度していた。母はそれをめざとく感じ取って「何時に家出るの?」「間に合わないんじゃないの?」と口酸っぱく言ってきた。根負けしたわたしは7時20分くらいには家を出なければ間に合わないこと、そして今現在17分で、支度は途中。走っても電車に間に合うか微妙な時間だと答えた。お母さんはため息を吐いて「駅まで車で送るから急いで支度しなさい」と、わたしに言う。「すみません、ありがとうございます」と言いながら小さくなって慌てて支度をする。お弁当を詰めて、講習に必要なテキストだけをカバンに詰める。まだ中学生であろう弟は講習なんかないので、わたしのことを呆れたように一瞥してテレビを見ていた。

 

お母さんの溜息と共に車は出発した。半ば放り込まれるように電車に乗せられ、鮨詰になりながら高校へと向かう。むちゃむちゃに押し合いへし合いを繰り返していると近くに友人のAがいた。(これは実在する高1のとき仲が良かった女の子)「正直講習だるいよね」「あたしサボろうかと思ってる」「1限は担任だから出なきゃやばいけど、2、3限はサボっちゃおうかな」Aの甘い言葉に釣られて「じゃあわたしも」なんて口走ってしまう。2限の水泳が嫌で仕方なかったのかもしれない。(水泳の講習とは?という疑問は夢なので抱かなかった)サボると決めると一気に気分が軽くなった。

 

学校に着いて、不真面目なくせにいつも前を陣取るAの後ろに座って形だけ勉強道具を広げる。「なんでAは毎回1番前に座るの?端とか後ろの方が気が楽じゃん」「灯台下暗しってヤツだよ」たしかにAが怒られているところを見たことがないので、あながち間違いではないのかもしれない。

程なくして座席がドンドン埋まっていった。みんな真面目だからか前から席に着いていく。Aが言った灯台下暗しは案外正しいのかもしれないと思ったりした。あっという間に授業開始だ。

 

わたしとAは同じグループに属していて、私たち以外の数人はわたしたちの席の周りを囲むように座っている。お腹が空いたからメロンパンを食べるとか、ちょっと私語が多いとか、少しの粗相では先生は動じなかった。緩く進んでいく授業が退屈で幸せな時間だったように感じる。私がいつも目で追う彼は手を挙げたりして発言していたけれど、わたしと目線が交わることはなかった。こんなふうに青春を消費するのが青春なんだろうなと言う気がして、授業をまともに聞いていない自分を恥じるわけでもなく座り続けていた。ノートにはミミズが這ったような跡が数本残されるだけで、それ以外は真っ白。授業を聞いていないわけではないのに、強炭酸を口に含んだ瞬間の衝撃みたいなものに包まれて何もしないで1限が過ぎた。

 

Aとわたし以外の友人はきちんと2限に向かうらしい。Aは「またサボりか!」と突っ込まれていたけれどそれでもそこそこ頭がいいので笑って済まされていた。わたしは特段目立った成績ではないので、そんなAを羨ましく見ていた。

 

行き場のないわたしたちは校庭の隅のベンチに腰掛けた。Aは鞄から取り出したラノベのようなものを見ながら、ふんふんと私の話に耳を傾ける。先程までは雑貨屋を巡ったのだけどAにとって丁度いいサイズのものが無いとか何かで校庭まで戻ってきてしまった。ジリジリ肌を焼くような日差しが鬱陶しいな。こんな時でもAは涼しそうな顔をしている。なんの本を読んでいるのか聞いても恥ずかしがって答えない。恥ずかしがるならブックカバーでもすれば良いのに。

そんな風になんでもない時間を過ごしていると、麻袋のような肌触りの悪そうな布をマントにしている、如何にもホームレスのようなおじいさんが近付いてきた。何も危害を加えられていないのに避けるのも良くないと思って、特別注視なんかしていませんというような顔で辺りを見渡し誤魔化した。するとおじいさんが「ここにいくまではどうすればいいでしょうか?」というようなことを私たちに向けて言ってきた。Aは明らかに嫌そうな顔をしていたけれど、迷子になっているだけなのに答えないのも可哀想だと思って答える。「多分、そっちの道に行けば着きますよ」努めて冷たく答える。私だって好んで浮浪者と関わりたくはない。

案の定そのおじいさんは気分を良くしたのか道と関係ないようなことを私たちに尋ね続ける。果てには私たちの学校のこと、家の住所にまで踏み込んでくる。Aは強めに「私たち忙しいんで」と言い放つ。おじいさんも好戦的になっているようだったのでわたしが宥めるような言い方で会話を終わらせようと試みる。Aはもうダメだと思ったのか私の腕を掴んで私たちの家の方向に引っ張っていった。おじいさんは私たちに付き纏い続け、挙句Aのスカートの中を覗いたり、身体に触っていた。それを見て私は衝動的にスクールバッグを振りかざしておじいさんを殴ったり追い払うようにメチャクチャに振り回した。Aはその場に立ち止まって青い顔をしていた。

「大丈夫?」と私が喉から声を絞り出すと、Aは「流石に暴行するのはありえない」と私を非難してきた。丁度ここは学校と住宅地を繋ぐ小さな森のようになっていて薄暗いせいかAの表情は窺えなかった。暴行なんて大袈裟な…と思いながら自分の足元を見るとおじいさんの頭から赤い液体が滲んでいるようだった。スクールバッグは当然講習テキストと筆記用具と財布くらいしか入ってなかったから、そんなに殺傷能力はないはず。でも実際におじいさんは血を流している。…私が殺してしまったのかな。

 

涼しい木陰の中で自分の汗が冷えて、鳥肌が立つくらいに寒くなった。気付くとAはもうその場には居ない。私1人でこの状況を誤魔化さなければならない。おじいさんの息も確かめずに死んだのだろうと決めつけて、私はおじいさんを引き摺りながら山道の脇に入り適当に土やら枯葉を乗せていった。成人男性を運んだ割に筋肉的な疲労は少しも感じられず、ただただ緊張やストレスで臓器が痛かった。風が吹いても気づかれないだろうというくらい土を盛った際についたのであろう制服の汚さに気付いたので、母が帰ってくる前に家路に着くことにした。

 

移動中の記憶はなく、無事に家に着いてまずはお風呂と洗濯を行った。一息つくと家中にピンポーンと音が鳴る。部屋着だったのでテレビゲームに夢中な弟に行かせようとするけれど全く行く気配もないので嫌々わたしが出ることにした。珍しくインターホンを確かめることもなく玄関を開ける。

そこにはAがいた。ボロボロ泣いて「あんたのせいだからね」と私を睨んでいた。「え、ちょっと待って、なんで泣いてるの」弟に悟られないように玄関から出て扉を閉め、Aに近付くと後ろにいる如何にも柄の悪そうな2人組の男が目についた。「どういうこと!?」とAにきくと「あんたが殺したって、言ったの」とつぎはぎに言葉にする。2人を一瞥すると気味悪そうな笑顔を私に向けて「殺しがばれたくなかったら金をくれと言ったんだけど、その子は聞いてくれなくて。だから」と言う。だから私に取り立てに来ましたっていうこと?死体が見つかったのかもしれないけれど、なんでおじいさんとヤクザみたいな人間が関係あるのか、なんでAのところにヤクザが来たのか、そもそもなんでお金を請求しているのか、わからないことばかりでまた変な汗が流れる。なんで?で自分の頭が忙しい時にスマホが忙しなくなっているのに気付く。私のスマホらしい。パッと通知欄を見るとネット上の友人の「お金が足りないのか?俺のところにヤクザが取り立てに来ているんだけれど」というものだった。なぜかはわからないけれどそんなところにまで迷惑がかかってしまっているんだ…私がしてしまったことは今更誤魔化せないんだ…。

絶望からの震えを誤魔化すように走り出して、あてもなく逃げ回る。

 

 

 

そんなかんじで再度ヤクザに見つかった時にハッと起床したというものでした。

おじいさん殺害までは起きてすぐ文字に起こしていたのだけれど、眠気に負けてその後は思い出しつつになってしまい臨場感が損なわれてしまいましたとさ…ちゃんちゃん。

人を殺す夢・殺される夢というのはたまーーーーに見るけれど、今回は周りの人に迷惑をかけまくっているという罪悪感が起きてからも続いていて、すごくこころにわるいものでした。

夢くらい楽しく見させてくれ…。

今年の目標という名の雑談

2021年もついに始まったので、見返した時に楽しめるように、本年の目標か何かでも記しておこうかしらと思います。

 

2020年は自分が思っていたよりも精神が落ち着かなくて、上手く動くことができず、歯痒い一年でした。就活もするつもりだったし(3年の夏からしてはいました)、卒論も書く予定だった。自分がやろうと決めていたことが全部ダメになって、立ち上がる気力がなくなってしまったという言い方が1番合っているような気がします。

コロナウイルスの影響もあってうまくいかなかったという人も多いでしょう。わたしは寧ろ恩恵を受けていて、正当なサボる理由になってしまったような気がします。運がいいんだか悪いんだか。

コロナウイルスによって上手くいかず嘆いている民には不謹慎すぎる人間だなと思うので深く反省しながら生きています。本当に申し訳ありません。

 

そんなこともあったので今年こそは清く正しく少しずつ目標をクリアしていきたいという気持ちがあります。気負いすぎないように、過程の丁寧さは度外視。出来ればオールオッケーという気持ちで生きます。落ち着いててできる女感あると言われますが、中身は絶賛赤ちゃんですと開き直って、箸持てただけでスゴイじゃん!と褒められるくらいのハードルの低さを見積もっています。

 

そんな感じで最近は人間らしく生きようと企てています。

ロングスリーパーなので寝れる時は10時間は寝たい。その上で勉強する時間を確保して、ご飯をしっかり食べて、運動をする。きちんと生活している人と比べると至極甘えた生活を送っている。だけれど自分としてはリハビリなので、えらいぞえらいぞと自分を鼓舞しています。

正直昨年は半年くらい食う寝る遊ぶことしかできていなかったので、その程度でも大躍進です。社会に出れんの?ってわたしが1番問いたい。

 

自分より2歳年下(弟と同じ年齢)と同じことをやって躓いている…と考えるとすごく不穏な気持ちになりますが、2年多く人より遊んでると考えたら恵まれてる!と感じるしマリーアントワネットになった気持ちで生きていくしかないなあと感じます。

やっぱり今年の目標はマリーアントワネットですね。就活・卒論出来なければ留年すればいいじゃないの、と。気持ちい〜!(白目)

 

マリーアントワネットの気持ちを保つためにも自分の身の回り・容姿に関わることに関しては手を抜かずに丁寧に生きていきたいと思います。浪人時代も、精神ズタボロでも服装髪型化粧ある程度しっかりしないと街中で泣き出す自信があるくらいの虚弱メンタルだったので、そこには手が抜けません…。

ただバイトは以前よりも格段に収入が減っているので(これは自分が動けなくなって自主的にバイトをやめたりしたからです)必要なものを必要なだけ買うようにしています。限定コフレとかね、可愛いんだけどね、どうせ今そんな化粧もしっかりしないし要らないでしょってネットサーフィンしながら葛藤してます。

 

 

そんな感じでゆるく頑張りたいと思います。

皆さんも一緒に踏ん張りましょうね。ちなみにわたし今年年女らしいです。

方向性について

頭が痛いので布団に潜っている。考え事に耽りたいけども、頭痛がひどい時は難しいこと・回りくどいことを考えられないので、自分が感じたことが直感的に頭に浮かんでは消える。

 

最近、雑記と妄想みたいなSSとを分断しようと企てている。

 

見てる側がより見たいものを見れるだろうし、わたしもより多くのサービスに触れてメリット(あるいはデメリット)を感じるチャンスになるんじゃないだろうか。私は何もなければ家で一月過ごせるくらいのインドアなので、新しいサービスに手を出すのも結構勇気がいる。(それとこれとは因果関係があるのか?と問われるとちょっと面倒くさいので流し読んで頂けると幸い。)

 

分断する理由の2つ目として、もっと妄想に気合を入れられるんじゃないかな、ということがある。

正直はてなブログにて雑記と共に妄想を張り付けるのは、「自分の書きたいシーンだけ」「特に課題意識も持たない」「自分のその時の感情が露わ」な部分が目立つのではないかなと思う。下書きも下書き。骨組みというか原案というか。スケッチをただ書くだけで実際キャンパスには何も描いていないんじゃないか?というような気がしてきた。

それが良いとも悪いとも思わないけれど、誠意に欠けるのかな、そんな言葉が1番合う気がしている。自分の中で文章を書くことがそんなに重要だとは思っていなくて、所謂遊びのようなものなのだけれど、どうせならもう少し整えた形を残していきたい。

 

実際問題としてわたしは現在学生なわけだけれども、就活や卒論でまた忙しくなることは目に見えている。だから今新たに踏み出すのを躊躇しているのかもしれない。

新しい場所で文章を書き留めるように工夫しても、忙しくて文章自体書けないんじゃないか。そういう心配をしている。わたしはわたし自身をあまり信用していないので、作った割に放置してしまうとか、そういうのもあるんじゃないかなあと疑ってしまう。

 

文章を全く描かなくなるということは(気が病みすぎて寝ることしかできない時以外は)無いけれど、それでも万が一、億が一と考えてしまう。そういうところがわたしの悪いところだなあと反省する。

 

ちなみに分断する先はnoteかなあと思っていたりします。記事を有料にするか否かは質によるかもしれないけれど、責任持ってかけたと思ったら有料にした方が自分にとっていいのかななんて思ったりもします。無償で頭の中をこれ以上開示するのも、安売りな気がした。

お金のことあまり好きじゃ無いんですが、あったら責任感みたいなものが植え付けられるし、結局お金がないと生活ができないということを考えると非常に難しい。人に強請ったりとか出来ない人間だから、頭を悩ませてしまう。難しいなあ。

意見等あれば各種snsでお待ちしております(ブログのコメント、通知が来るのか来ないのか忘れた頃に発見しがち)

 

顔に泥を塗る

 

高校生のわたしはあまり化粧に興味がなかった。

寒いと血色が悪くなるから色付きのリップにしようかなとか、どうせコンタクトなんだしナチュラルなカラコンしたら可愛いかな?とかその程度のことしかやっていなかった気がする。地黒なのは悩んでいたから気休め程度に日焼け止めを塗っていたり、眉毛もたまに剃っていた。(両親とも眉毛がしっかり生えている家系なので態々描かなければならないほど壊滅的な状態ではなかったと思いたい。)

ニキビが酷くてニキビケアの洗顔とかを使ってはいたものの、狂ったように菓子パンやフラペチーノを飲んでいたのであまり意味はなかった。そんな感じなので肌に何かを塗っても無意味な気がしてそんなに気が乗らなかった。

 

凄く不真面目な例だとは思うけれど、化粧に熱を入れ始めたのは浪人時代だった。

私服ということは生徒ではなくなってしまっている証拠であるように感じて、すっぴんでいることが急に恥ずかしいことのように感じられてしまった。人目が気になって仕方がなかった。人権がないのだから見た目だけは繕うようになった。

高校時代バイトしていたお金を使って、皮膚科にも通うようにして、少しずつ自分の嫌な部分を改善するように努力した。

 

今でもすっぴんは結構厳しくて、眉毛とかが上手くいかなかったり、まつげが上手く上がらないと気分が悪くなって外出できなかったりする。本当にそういう病気なんだと思ってもらって構わない。それが一番的確な表現だと思う。

化粧を始めて不良になったとか言われる描写がたまにあるけれど、わたしも時期が時期だったのでそのように言われたりした。

だけどそうしないと自分を肯定できなくて、他人の目が気になって仕方なくなる。「化粧がめんどくさい」と言ってすっぴんでいられる人間は自己肯定感が高いのかなと思ったりする。

 

あまり大きな声では言えないけれど、すっぴんで学校に来る友人に引いたりしたことがある。

よくそんな顔を世間に晒せるな!?と思ってしまった時に自分の認知がおかしいことに気付けた。化粧品は好きだけれど、それ以上に義務だとも思っている自分がいる。男性でも髭伸ばして髪の毛ボサボサでいるのには引いてしまうけれど、女性にはより厳しい目で見てしまう気がした。(容姿が可愛い女の子のすっぴんは多少許せちゃうのがより醜いなあと感じる)

 

整えなきゃ、装飾しなきゃというのは一種呪いで人によって「最低限」は違うのだから、一概に眉毛伸ばしっぱなしは駄目、髪を派手な色に染めるのも駄目なんて言えない。TPOによるものもあるし、個人の感性で判断される部分が大きいと思うから。

整形はしたことがないけれど、綺麗を目指した果てにするものだと思うから「整形してるらしいよ笑」と小馬鹿にする人間は血が通ってないなとも思う。

 

 

島国・日本に生まれたからこそ、「色々な形の美しさ」を許容する心が弱いのかもしれないな、なんて考えている。

 

恋人に言わせると私が自分を魅力的に見せようとしてした化粧も泥を塗る行為と同じらしい。正しいなんてないんじゃないか。

長考

わたしは人よりも長く考えることのできる人間なのかもしれないな、と敢えて言い換えよう。

 

ちょっと躓いたことを数年単位で引き摺って、動けなくなることを愚かで滑稽だと思っている。けれど自分のことに対してこんなに時間を割いて生活できるのは学生である今しかない。同じような時を過ごしてる人でも皆んなが自分を考えるために時間を割くわけじゃない。わたしは自分を考えることを選んだんだ。そう思うようにしよう。

 

 

休学に失敗して、来年から5年生をやるつもりであるわたし。(お察しの通り薬学部や医学部医学科等ではございません)

浪人も経験しているので、また足踏みをしてしまうのかと落胆していた。自虐をして笑いを取るしか出来なかった。浪人時に「留年は本当に意味わからん笑」と言ってたのが綺麗に弧を描いて心臓を直撃した。単位は余裕で取り切れるようなものだったのだけれど、恥ずかしいから単位を言い訳にするようになってしまった。勉強が出来ないことよりも、自分の憂鬱が親含め他人にバレてしまうことの方が怖い。

 

何故わたしはこんなにも小さなことを延々悩んでいるのだろう。電車の中とか蒲団の中とか、何もしないで居ると自然と涙が溢れてしまう。そんな自分に対して悩みが膨らんだりして、実際自分が本当に悩んでいたものがどれくらい些細なことだったのかも忘れてしまう。

人があまり深く考えないことを態々掘り返しに掘り返して傷跡が残ってしまう。

 

 

なんでこんな人間になったのだろうと考えると、友人の作り方が下手だからなんだと思う。

これは結構コンプレックスで、指導教官に相談したこともある。「僕もそうだよ」と返されたけど、先生はうまくやっているように見えるし友人だって少ないようには見えない。随分社交的だし。仮にわたしと先生が同じような人種であってもこう違うのは、折り合いをつけているか否かなのかしら。年の功ってやつなのかしら。そうだといいなあ。

 

男の友人は居ても、結局下心なのかもしれないと思うと100%頼ったりなんて出来ない。(あと恋人が異性と夜に会うとムスッとするので物理的に無理だったりすることもある。友人なら手出されないでしょと思うけど恋人曰くわたしは隙があるようなので根源から断つしかないと思う)

女の友人はいるけれど、自分は女の子も好きになることがあるので、なんらかの拍子に友人にキモいと思われることをしてしまったら嫌だなあと思う。だからこそ踏み込めない。好意を拒否されるというのは結構、人格否定のような、そんな気になる。だから極力接触したくない。保身。

 

 

結局自分はこういう人間なのだから、考えてしまうのは仕方ないなと思う。

考えることを放棄するやり方をまだ知らない。

適当に勉強で誤魔化して頭をパンクさせればいいのかとも思うけれど、ルーティンに慣れてしまうとまた考えてしまう。忙しいことがこころの健康につながるのかなとも思ったことがあるけれど、結局解決には至らない。

 

似合わないもの

 

小学生の頃は土曜の7時くらい(記憶違いかもしれない)からやっているズムサタの原宿特集をよくみていた。

それこそきゃりーぱみゅぱみゅとかロリータファッションとかそういうものを可愛くフォーカスしていた。

 

わたし自身はそんなにお姫様みたいに育てられたわけでもなく、メゾピアノとかポンポネットとか着るような友人を横目にイオンで買ったよくわからないブランドでもないような服を着ていた。強いて言えば医者である父を持つ従姉妹からのお下がりで流れ流れて4代目くらいの少しくたびれたブランドものを身につけるくらい。それを悲しくも思っていなかったし、今までかけられていなかった金を使ってまで可愛くなりたいとも思っていなかった。

そんな感じであまりファッションに興味はなかったんだけれど、その番組は異様にわたしを惹きつけた。わたしはきっとオシャレに興味がなかったのではなくオシャレと遭遇していなかったのだ。

 

その番組内ではゴスロリとか黒ロリとか、一般人じゃ見分けのつかない種類のものをわかりやすく解説したりしていて、すごく勉強になっていた。一見すると同じような服装をしていても、一人ひとりコンセプトがあるらしい。綺麗なシルエットのドレスにパニエが仕込まれているのもこの時初めて知った。

普通の場所だとこういう格好をしている人は敬遠されるけれど、原宿ではみんながみんなこういう格好なのか!と感銘を受けたりもしていた。中学校の修学旅行まで北海道外に出たことがなかったのでその当時原宿にロリータが蔓延っていたか否かは定かではないけれど。

 

わたしはお姫様というよりもバレリーナに憧れていた。

幼稚園時代の友人がバレエを習っているらしいことを聞いて憧れたのがきっかけだけれど、バレリーナとはどんなものなのか、どんな曲でどんな風に踊るのかは至極曖昧だった。知識として知ってはいるけれど実際見たこともなかった。絞り出すなら「明日のナージャ」というアニメの主人公が踊り子だったので、そのイメージに近い。どのみち曖昧。

 

ロリータファッションに憧れたのはパニエがあったからなのかもしれない。優雅で、形式ばっていて、難しそうなのが良かったのかもしれない。2つに共通するものはないのかもしれないけれど、どちらもわたしを惹きつける。

 

バレエもロリータファッションも、わたしは今まで23年間触れることがなかった。遠くから眺めて憧れるくらいが良いのかもしれないと思ってしまっている。

挑戦するには年老いたと感じることが出てきて、自分が如何につまらない人間かが透けて見えてしまっているような気がする。

 

特にロリータファッションなんかはお金を使えばすぐ実現できるものなのに、「似合わないかも」「イタいかなあ」とありもしない第三者の目を気にしてしまう。

そんなことを言っているから、わたしは一生フリルが似合わないし鏡の前で踊るなんてこともないんだろう。