今日を生きる

月曜へと向かう電車の中で、ふと「私は死ぬまであと何回恋をするのだろう」と思った。私の中では何人に恋をするかというよりも、何回ときめきを得られるかの方が気になるようだった。

 

こういう考えをするきっかけとなったのは伊坂幸太郎の「アイネクライネナハトムジーク」だった。これは尊敬する人の本棚から拝借したものなのだけど(仲が良いので澄ました顔で本棚に戻せば怒られないと思っている)、人の出会いを延々と描く短編集らしく少しだけ寂しい気持ちになった。私は普段至極人との出会いを無駄にしているので、そう思うのだと思う。

 

初めて恋をしたのはいつだっただろう。たしか私が幼稚園の年中組に属していた時くらいだったと思う。

少し滑稽な話になるけれど、いつも同じバスに乗っている年長組の色白の男の子が好きだった気がする。何が滑稽なのかというと、記憶の中の彼は私に向かって「玉葱って炒めると甘くなるよね」と言っていたから。それ以上も以下も記憶はない。それなのに、今も彼のことを彼の言葉を覚えているのは一種の恋だと思う。幼稚園の時分に加熱された玉葱は甘いなんて言う人物と出会ったことがなかったから、その意外性にやられてしまったのだと思う。何故それが恋につながるのかというのは人類が生んだ最大の謎なので、是非アマゾンの奥地に探しに行ってほしい。

 

私は恋愛が好きなので、思えば大小形不揃いではあるけれど恋を何回も何十回も享受している。尊敬する先生にも恋をしているし、ホーム越しに目があったスーツを綺麗に着こなす紳士にも恋をした。心が動けば全て恋なのだと思う。付き合うとか好き合うとかそういうのは、あまり重要じゃない。そりゃあ恋が重なればとても愉快なものなのだろうと思うけれど、重なって仕舞えば多少のズレが気になったり形の不揃いが気になったりして、楽しいことだけじゃないから少し億劫だ。

億劫なことを受け入れられるような相手と恋をしあえるのが良いのだろうな。

 

浮気性なように聞こえるかもしれないけれど、私は特定のパートナーがいるからといって他人に恋をしてはいけないとは思っていない。だって恋は不定形で1人に甘んじたら未知の形を知らずに死んでしまう。育んだりはしないけれど、「いいな」と思うセンサーはいつまでも錆びつかせたくないな。

 

女の子ってそういう気持ちで可愛いを保っているのだと思う。化粧品や服にときめくのも恋だし、いつもより丁寧に纏められた髪の毛にテンションが上がるのだって恋だ。

 

冬が近付いている。