羨望

単語を聞いて思い出すのは白い蛍光灯で、私は何を思うわけでもなく人形になっていて、どうしてこうなったかもわからなかったしひたすら自分のせいにしていた。

よく考えれば相手があまりにも強引に物事を進めていたのが悪いし、私にも断る権利があったし、回避だって十分可能だった。

あの時の私は凄く判断力がなくて従うままの都合のいい存在だったんだと思う。

 

あまり思い出したくはない。

 

人の話を聞くたびに幸せそうで惨めになる。でもやっぱり自分のせいだなあと思う。

私だって抜け出そうと努力はした。形だけじゃなくて中身もあるんだって思おうと努力した。でもやっぱり相手は私じゃなくて女を見ていた。私じゃなくても良かったんだ。

相手も相手で可哀想な人なんだと思う。今は利害が一致する人間と幸せに暮らしてるのかいないのか、よくわからないけれど。可哀想だから今でも相手を責められないでいる。

 

友達で「いらないから適当な人間で捨てたい」と言う人がいる。

最初の無様な姿を本当に好きになった人に見せるのが嫌だというこころかららしいけれど、それは悲しすぎるからやめておいた方がいいと思う。本当に好きなひととする時に「なんで捨てちゃったんだろう?」と後悔するよ。それなら滑稽なところを見せた方が可愛いよ。女の子は可愛くあるべきだから。

 

子供を殖やすわけでもないのに何故我々がセックスをするのかというと、それは性欲と愛情の2種類が要因だと思う。

性欲はそのまま、生物として生まれたからには殖やせばならないという気持ちがあるのは至極普通なことだ。だけれど社会を生きている我々が安易に殖やすと馬鹿をみる。子供をうまく育てられない。だからゴムに吐き出すなり薬を飲ませるなりして回避する。

もう1つの愛情というのは、非常に根拠のない推論。多分私は経験したことがないから根拠がない。ただ、あればいいなと思う。だから要因にぶち込んだ。暴論。

 

 

 

深夜にベッドで横になっても眠れない時に聞こえてきた両親の如何にもすぎる声は、恐らく愛情なのかなと思う。私の両親は仲が良い。

 

隣の芝生は青いというけれど、どう見ても私の庭に生えているのは雑草。それもネコジャラシやらタンポポやらシロツメクサなど、いろんなものが混沌としている。

嫌だなあと思って薬を撒いたら雑草は枯れた。そこまでは良かったのだけど、それに伴って庭自体がダメになってしまった。

でも薬を撒いたのは私だから、やっぱり誰も責められなかった。

そういう話。