9回目の京都

毎日更新しようと思ったけれど、思った以上に目まぐるしく日々がすぎてしまったのでもうこんな時間になってしまった。

 

京都は私の故郷と言っても過言じゃないと思う。

高2のOC(2015.8)、修学旅行(2015.10)、高3のOC(2016.8)、国公立受験(2016.2)、私立受験(2017.1)、登美彦氏イベント(2017.3)、誕生祝い(2017.4)、単に旅行(2017.6)、そして今回。

特段便利で特段オシャレというわけでもないけれど、わたしはこの街が凄く好き。そこに「ある」けれど、みんなが「ある」ことを意識していないのが好き。

 

どうして文字にするのがこんなにも億劫なのだろう、と思ったら、文字にすることは思い出にしてしまうことだからだった。私の生きて行く場所は北海道で、京都では(まだ)生きていけないのが悔しい。

京都で生きていくことができたら、諦めなくて良かったことも沢山ある。結果的に諦めて良かったこともあるんだろうけど、それでもあまり肯定的に思えない。

何故か京都に生まれて、受動的に何となく京都で進学をしている人は前世でどんな徳を積んだの。私がこんなに望んでも手に入れられない環境を掴んでいる、そこらへんの学生がうらめしい。

 

京都に固執する自分も嫌だし、かといって京都への憧れが薄れていく自分も嫌なの。京都から帰ってきた私は、ずっと「嫌」と「嫌じゃない」の繰り返し。子供じゃないのにね。

京都に行くたびに親に怒られる想像をする。飛行機が浮くたびに親に申し訳なく思う。京都から帰るたびに家で気まずくなる。京都に行くことは何も救いになってないのだ、実は。

 

京都を知らなければこんなに辛くもなかったし、こんなに幸せでもなかった。

私にとって京都は恋人。

なんとなく京都という土地が好きとかじゃない、なんというか、もう神格化している。信じるものは救われる。そんなものだと思っている。

 

親に何故京都に固執するのかと言われたことがあって、口で言えないから森見登美彦の小説を全て突きつけた。

そうしたら1週間くらいして、何も目をつけてないだろうに自分の部屋に返されていた。

好きな小説を突きつけるのは勇気がいるのに、否定されるどころか見られることもなかった。

 

だから多分私は京都への気持ちは疚しいものなのだと思うようになった。

 

だって京都は優しいし暖かいし楽だし気持ちいいし楽しいし全ての快楽が詰め込まれていて、だから疚しいと思っても仕方ないと思う。私は楽をしたい人間なのかもしれない。恥ずかしい。 

 

行った直後は楽しかったけれど、丸2日経つともうこんな気持ちになっていた。救いようがないのは私だ。近々また病院に行かなきゃならないのかなと思う。

大好きな京都の話なのに、こんな形になってしまって悲しい。