メメントモリ

 

直に知り合いというわけではないけれど、SNSでたまに見かけていた人が亡くなってしまったらしい。突然の事故や自殺とかではなく、長い間闘病していた末の最期だった。

 

わたしにとっては勿論他人で、初めて見かけた時は若いのだし治るものなのだろうと軽視していた。病気を克服して頑張っています!という姿はインターネットでよくある見せ方の一つだと考えていた。

どのくらい深刻なのかは結局当事者しかわからないし、わたしだって、自分の心の憂鬱は人に伝わらない類のものなのだろうと諦めている。自分にとっては非常に致命的なのに、周りから見たらファッションメンヘラと同じなのだ。わたしは彼を、自分がされたら嫌な見方でしか見ていなかったようだ。

 

 

人の死というのは、自分が考えるよりもドラマティックなものではないと最近知った。

人間は死に逆らえないし、いつ死んでしまうのかなんて、医者でも100%わかるものじゃない。死んでから「本当に死んでしまったのか」なんて呆然としてしまう。本当に死んでしまうならこうすれば良かった、という気持ちは、結局どんな行動をしていても沸き起こるものなのだろう。

人の死は悲しいけれど、回避できるものでもない。人間は卑小な存在だなというのをひしひしと感じる。

 

例えばわたしがあと数ヶ月で亡くなってしまうとして、抗おうと思うのだろうか。痛いのは嫌だから、緩和はしたいと思うけれど、生き延びたいとは特別思わないような気がする。病気になってしまったら「今更やっても仕方がない」と思って寝ることしかしないような気がする。

文章を書くのは好きだけれど、自分が死んだ後に「この時こういうような気持ちで綴っていたに違いない」と想像されるのはあまり好ましくない。自分が生きている上での解釈ならば、そうじゃないです違いますでもオモシロイねと伝えられるから良いのだけど、自分の意図しないものが定説として流れてしまって、その伝播を止められないというのは非常に好ましくない。

実際にどのように解釈されるのかというのはその時になってみないとわからないので、死んだわたしには知る由もないのだろうけど。

 

自分の嫌いな人間に対して死んでしまえと、幼い頃は思ったりしたものだけど、この歳になると生命が絶えてしまうまでは望まなかったりする。わたしの知らないところでギリギリな状態で生きてれば良いんじゃないかと思う。

 

人の死は悲しいけれど、それが理由とされるような行動を起こしたりはしたくないな。自分を1番大事に生きていきたい。結局願望でしかないけれど。