横顔

絵を描くのが好きだ。これは小さい頃からそう。姉が絵を描くのが好きだったので、自然と私もそうなった。後に姉は世間一般でいう「オタク」になる。

私は今でも絵を描くのが好きだ。だけれど姉のような「オタク」にはなりきれなかった。アニメを見るのもあまり得意でないし、ゲームも30分で飽きてしまうし、漫画も自分で買うほど情熱を注げなかった。絵を描くという行為だけが、単に好きだった。そういうこともあって私は進学を安易に美術に決めてしまった。

それもあって大学に入ってから度々授業中に絵を描かなければならなくなったのだが、その度に「私今までキチンと絵を習ったことがないんですよ!」と大声で話して保身する。癖になってしまって、良くないと思うのだけれど怖くて治せなくなった。

それでも絵を描くのは好きだった。

 

1年生の秋に、大学生になって初めての恋人ができた。彼の名をHとしよう。

Hとは毎週末会える時は会って、というのを繰り返していたらいつのまにか恋仲になっていた。彼は私には珍しく顔も整った相手で、身長も高く、世の女の子の憧れといった風貌だった。私は、決して見た目に惹かれたわけではないけれど、横に並んで歩くとき少し誇らしかった。

 

何回目かのデートで、Hと美術館に行った。

これはロマンティックな意味はかけらも無くて、単に大学でのレポートを消化するネタとして調査に行ったというのが正しいだろう。Hには申し訳なかったけれど学生の本分は勉強なので無理やり誘った。Hは「まあ他にしたいことも無いしね、ちょっと遠出だね」と笑ってくれた。

美術館は郊外にあったので、着くまで地下鉄やらバスやらに揺られまくった。道中に私は最近買った不便益についてまとめられた本を読んで、Hはというと連日のバイト疲れからうたた寝をしていた。

「一緒にいるのに寝てしまうのは少し悲しいな」と言ってしまったら、わざわざ来てくれた彼に申し訳ないので慎んだ。彼の柔らかい髪が陽に照らされて少し茶色く光っている。Hの横顔が好きだ。正面よりも、何処か違う場所を見ていたりする姿が好きなのだ。目が合いそうだとか変に焦る心配がないから。

不意にキュウと胸が締め付けられた。

この場を切り取らないと、私の手のひらからは溢れてしまうと感じた。この幸せは永遠に続くはずがないと宣告された気がした。自分の中で何が起こったかはわからないけれど、何か途轍も無い不安に襲われた。

 

とても犯罪的だけれど、寝ているHにスマートフォンのレンズを突きつけた。

幸いバスには乗車客はいなくて、何も無い空間でスマートフォンだけがパチリと音を立てた。

 

 

数ヶ月後、季節はもうとっくに冬でいつのまにか年を越していた。相変わらず相手はバイトに熱を入れていて、私は2018年の彼を未だに見ていなかった。

ただ、25日に会おうという約束が前々からあったから寂しくもなかったし、寧ろ今のうちに勉強やらを済ませておこうと冷静になれた。

美術を学ぶ上で、大学で試験が課されることはほとんどなかった。実技かレポートか。大半はそんなもので成績がつけられた。私は記憶力に自信がなかったので、それはとても好都合だった。テストがあるのは一般教養の2、3科目だけだった。

テストが始まる週にHと会う日があったが、放課後の数時間会うだけだし、何も都合悪くは感じない。何もかもが順調に運んでいると思っていた。

 

23日に、普段連絡を取らないHからメッセージが届いていた。

「今日時間ある?話したいことがある」

いきなりのことで驚かないことはないけれど、気持ち悪いくらいにその一文で全てを悟ってしまった。会わないうちに、相手が冷めたのだろう。私も子供ではないし、聞き分けよく返事をした。

「久しぶり。大丈夫だよ、22時以降ならいつでも暇かな。電話待ってます」

何が大丈夫なのか自分でもさっぱりわからないけれど、真っ当な恋愛らしく、時間までHとの写真を見返した。顔が整っていると思い出まで綺麗マシマシでずるいなあとおもう。

 

私は何か悪いことをしただろうか?と考えるとキリがなかったので直ぐにやめた。下手なことを考えると面倒くさい女になるぞ、と女友達からキツく教えられていた。それというのも、初めて出来た彼氏に振られた時に、どうして好きじゃなくなったかと聞いたことがあって、相手にため息をつきながら「めんどくさいから」と吐き捨てられた。それから面倒くさい女にはなるまいと誓ったのでした。

 

 

 

悶々と考えているうちに寝てしまっていたようだ。

サイレントモードにしている私のスマートフォンの液晶が光って、着信を知らせている。

私は焦って応答した。

 

「もしもし」

 

少し声を抑えて、声に応じる。本当は遅い時間に通話をしちゃいけない暗黙のルールがあるからなのだけど、それは家庭の事情なので、なるべく悟られないようにはっきり発音する。

 

私が話す言葉と違って、向こう側の声はいつもよりぼんやりしていて、話自体も真っ直ぐは進まなくて、あれ、この人って初めて話す人だっけ、というような気持ちになった。

 

「忙しそうだもんね、なんとなくわかってた。今までありがとうね」

という準備はしてたつもりだったのに、何も話せなくなっていた。話し方を忘れてしまった。スピーカーの向こうで、電波に乗せて、誰かに似たような声で、何かよくわからない異世界の話をしていた。

言葉よりも先に目から何かが溢れてきた。

これを相手に知られたら、相手はすごく嫌な気持ちになるだろうな。すごく面倒くさがるだろうな。最後まで良い人でいたいな。そう思うと、泣いてることを悟られちゃいけないと、押し黙ることしかできなかった。

 

「…言いにくかったら後ででも良いから。取り敢えず電話切るね」

 

予感をしたときはあんなに落ち着いていたのに、自分は本当に情けない人間だ。暫くはメッセージを送ることも出来ず、また写真を見返していた。

 

Hを縛り付けたくは無かったから、私は十分受け入れる気持ちではいる。それでも、自分から何かが抜け落ちるようで、何処か寂しさはあった。この写真も全部無かったことにされてしまうんだと思うと、初めから出会わなければなんて考えたりもした。

私自身勉強がしたくて大学に入るのだから彼氏なんて作らないと元々言っていたので、今までがおかしいだけだったのだ。

それでも無かったことにされてしまうのは、あまりにも無意味すぎるというか、勿体ないと思う。だから。私はHとの思い出で何をしよう、と考えた。そういえば私は大学で絵を描く道を選んでいた。大学では勉強を頑張ると言っていた。この経験も、そういうことに昇華するためだったんじゃないか?

 

結論がついたところで

「今までありがと」

と、剽軽な絵文字を付けてメッセージを送った。

 

 

 

私のスケッチブックには未だ下書き状態のHが遺影のように佇んでいる。これを作品に仕上げるのは私が彼を忘れた頃だと思う。あの頃は若かったな、一生懸命だったな、と思える頃に清書をして色を塗って彼を生き返らせるのだ。

それまでに私は、また何回も恋をしてより良い女になるんだろうと思う。恋愛に対しても非常に熱心で良いお嬢さまです!と太鼓判を押したくなるくらいの淑女になるのは自明だ。

 

スケッチブックの中の彼は、褪せることなく綺麗な横顔で眠っている。