卑小

あの日私はやっぱり少し弱気になってメッセージを送れないでいた。自分の単純な一言が相手に気を遣わせてしまうかもしれないし、相手がそのことで私を疎遠にしてしまうのがたまらなく嫌だったから。意味もなくスマートフォンの電源を入れたりして時間が経っていくのを感じていた。

「話したいことがあるんだけど、」とメッセージを送ったのを後悔している。送信取り消しをしようとした瞬間に既読マークがついてしまったから、今更消してもしょうがない気がした。態々文字で伝えようとするくらい、私は冷静じゃなかった。

 

恋は人を弱く、醜くする。

相手を好きになってからというもの、私は自分に自信を無くしてしきりに身だしなみを整えようとしたりする。服の系統を変えてみたり、無駄に仕事を張り切ってみたり。初めの方は「なんかいつもと違うんじゃないの」と興味津々な目で見られたけれど、日常となってしまったのか今はもう何も言われない。それもそれで何か悪い部分があったのかと感じてまた系統を変える。自分らしくないを何重も繰り返して、全く自分でなくなってしまったようにさえ感じる。

 

隣り合う机から漂う匂いが凄く心地よくて、その根源は何なのか1日中考えてしまう。香水なのか柔軟剤なのかはたまた体臭なのか。でもこんなこと気持ち悪くて訊けたものじゃないなと考えて、ずっとずっと頭の中で繰り返す。ちょっとミルクっぽいような石鹸のような、わざとらしくないけど確実に脳髄に染みわたるような甘美な匂い。

私が躊躇って訊かずにいたことを同僚は難なくやってのけた。「いつもいいにおいするよね、柔軟剤?」その言葉に相手は嫌な顔一つせずに答える。「いつもつけてるオードトワレの匂いかなあ。好きなモデルが愛用してるらしくて、真似してみたの」その後同僚に向けて何やらスマートフォンを向けてウェブサイトとかの説明を熱心にしていた。そんなことなら私が訊けば良かったじゃないか。そんな風に思うのだけど、私にもその笑顔を向けてくれていただろうか?と考えると恐ろしくて指先が痺れるような気持ちになった。

 

聞き覚えはあるけれど歌手名をよく知らない洋楽が垂れ流されている室内でメッセージの受信音が唐突に響く。少し肩をすくめながら目を細めて痛みに耐えるように画面を覗く。動画配信サービスの広告メールだった。

唐突に話しかけて唐突に黙るようなおかしな行動をしたところで相手は1㎜も心配することなんてしないんだ。それというのも相手にとって自分がその程度の人間だからなんだ。面白いくらいに残酷なことしか考えられない。

簡単に電波で思いを飛ばせる現代が憎くて仕方なかった。