幸せならOKです

 

いきなり私に踏み込んだ話を持ちかけてきた天使は、私のことをそれくらいの間柄だと認識してくれているのだろうが、言ってしまえばそれ以上踏み込む隙はないと牽制するみたいだった。相変わらず私は考えすぎなところがあって、彼女はそこまで考えていないのはわかっている。それでも、事実関係を並べると明確な線引きが私の前でなされているのがわかる。

「女が相談するときに一番欲しい反応は共感だ」と身をもって知っているから否定なんてできなかった。現に彼女は嬉しそうに困りごとを話すから、彼女の中では決まったことなのだろうと思う。なんとなく、話しても支障がないだろう場所にいる私に感情を漏らしたかったのだと思う。本人はきっと気付いていないんだろうけれど、正真正銘恋する乙女の顔をしていた。幸せそうな姿を見るのが私の幸せだなと思う。

 

帰り際にもうそろそろ10年の仲になるんだねと話されて、時の流れの早さを感じた。

10年ずっと友達をしていたかと言われればそうじゃないし、お互いの存在を忘れた期間だってあったんだと思う。その間にお互い大人になって、上手い誤魔化し方や社会一般での普通を知ってしまった。出会った時と再会した今の私たちは全く同じではないのだろうけれど、昔も今も変わらず彼女に憧れ続けている私がいる。

 

昔、彼女の自宅で遊んでいた時に、BGMとして流していた曲が今までに聞いたことないくらい可愛くて、帰ってから歌詞を検索して自分もYouTubeで聞いたりした。今でもそのアーティストは好きだし、自分が自分じゃなくなりそうなときに聞くとあの頃のまま変わらない気持ちを思い出せる。歳を重ねて歌詞が若くなり過ぎて聞けなくなったりすることもあるのだけれど、そのアーティストに関しては何処か嫌いになりきれない部分があった。今こうやってまとめてみるとそういった思い出込みで聞いているから嫌いになれないんだ。

 

帰りの地下鉄で「じゃあ私はここで降りるから」なんて言われて車内で解散した。

前にもこのブログに書いていたのだけれど、彼女は解散したら決して後ろを振り向くことはない。私ばかりが背中を見つめている。それなのに今回は珍しく、車窓からこちらに手を振る姿が見えた。びっくりしながら私も手を振り返した。笑顔は一瞬で人混みに呑まれて消えていった。

地下鉄が私の最寄りである駅へ向かい始め、頭の中でさっきの笑顔や今日あった出来事を反芻する。結果としては何も変わらないんだけれど、私の中で何かが大きく変わったような気がした。何かが終われば何かが始まるものなのだ。

自信ないな

 

2週間くらい気分がいい状態が続いて、久しぶりに気分の落ち込みが現れた。

極力家から出たくないし、怠さとか眠気が強く、マイナスな思考に陥りやすい。

せっかくの休みなのでこの波に争わずに極力省エネで生きる。休み明けまでに自分の輪郭がはっきりすると良いなと思う。

 

最近は些細な良いことと悪いことの繰り返しで、際立って良いこととか悪いことが発生しない。

これ自体が良いこととは思えない。自分が無感情で冷たい人間になっていくのを感じる。

知人程度の距離感の人間がSNSに垂れ流す子どもの様子を見て可愛いと思えないし、

何かに対して攻撃的な発言をしている人を見て可哀想だなという気しか起きない。

周りの人間は日々楽しいこととか悲しいことをニュースとして発信しているのに、私には大したことがないから何も言えない。

今日も体調を崩さず仕事に行けた、とか、そんな当たり前のことしか手元にないから悲しい。

 

 

9月も下旬だから、流石に外気が秋めいていて、少し着るものに困る。暖かくしすぎると室内で暑いし、薄着すぎると朝夜が冷える。

毎朝この服は間違っていないだろうかと、家の近くのショーウインドウで確認する。多分間違っていない、はず。

目眩じゃないけど、目眩みたいな、自分の存在と心の座標がズレるみたいな事象はなぜ起こるんだろう。

ここにいるのに、ここにいない気がする。最近他人にわかられたいという気が薄いから、文字に残すことすら億劫になっている。

私って面白くない人間なんだ。気づいてしまった気がして地面を踏み固めるような行為しかできない。

 

私が文字として残すのに固執しているのは、音声言語の聞き取り及び記憶が人より苦手だからだと気づいた。

日本のドラマでも、字幕をつけた方が負担なく観れる。開始数分で挫折していた邦画も、聞き取りにくいから立ち止まっていたんだと気づいた。

今まで吸収できなかったものも、手段を知ったらまた挑戦できる気がした。嬉しい。

 

 

自分ができることを少しずつでも広げていけばいいとは思っているけれど、自分ができることってなんなんだろう。

会社に勤めて3年目になってしまったけれど、休んだり、途中で出来なくなってしまったことがありすぎて、後輩よりも出来ない人になっている。

私は「続ける」ということが1番難しいことだと思うから、役立たずでも、自分が納得できるまでは辞めない。

自分にもどこか良いところがあるって信じている。

オールライト

 

病院に行ったら「ダメ」と「頑張る」を口にしない生活を心がけるように言われた。

いつも調子が悪い時は「今日こそは行かないとダメだ」「頑張らないと」と自分を叩いているのが良くないらしい。

「また出来なかった」が重なって、結局何も出来ないまま1日を終えてしまう。

今日は休みってことにしちゃおー!と切り替えられればいいのに、それがうまく出来ないから人生がうまくいかない。

こんな調子で27年も生きているのだから、何も誇る部分がない。

 

最近周りを見渡すと、会社で生き生きと働いている社畜か、働くのはほどほどに家族の将来を考えている夫婦かが多くて、

自分のことにばかり焦点を当ててぼんやり生きている自分が情けなく感じる。

果たして私は何をするため生きてきたのか。こんなふうに自分を通した世界を考えるためなのか。

社会に大した益も与えない自分の生き方が非常に情けない。

 

 

冷たい飲み物を飲むときに、舌で探るようにしてストローを咥え液体を口に運ぶその姿が、側からみてすごく嫌だなと感じる。

別に衛生的に悪いことでもないのだろうけれど、普段は見えない舌という人間の臓器らしい生っぽいものが他人の私に見えてしまっているのが嫌だ。

こんな風に、自分自身のよくわからない調子で起伏する気分を簡潔に言葉に纏めることが出来れば、自分はもっとまともに生きられるのだろう。

言葉にすることは「その程度」を決めることで、良い意味でも悪い意味でも暗示になる。

簡潔に纏めることが出来れば、私の悩みなんてその程度のものだから、四六時中悩む必要なんてない。

簡単に纏めることが出来れば、自分にすればその程度のものだと爪先で弾いて遠くに飛ばすことだってできる。

遠くへ飛ばしてしまって、頭の片隅からも居なくなって、私をフラットにすることができる。

フラットにした結果、人として深みがなくなるのかもしれない。

多分この「どうでもいいこと」として括った考えが実は自分にとって非常に大事だった場合が恐ろしくて、わざと曖昧にしてしまうんだ。

 

 

生き方の正解なんてないから、生き方に困るし、他人を見て焦ってしまう。自分にないものを持っている人が羨ましくて仕方なくなる。

私より歳を重ねた人間は割と自分の年齢をそのまま受け取っているみたいだけど、私は19歳の頃から何も変わっていないような気がするからもうこんな年齢かと焦ってしまうのだ。

見た目だけ歳をとって身分不相応になっていると、過剰に感じてしまっている。

自分が思い浮かべていた27歳になれない自分が悲しい。

 

 

悲しいことを考えない

 

私が引きこもったり通院したりしている間に、会社は止まることなく動き続けていて、安定していると思っていた環境が目まぐるしく変わっていた。

私がまともに会社に通えなくなってから、数人退職者が出た。私が入社して2年は何もなかったのに、急に、というか、皺寄せなのか、定年でもなく各々の理由で人が出て行ったらしい。

 

私はこんなになっているから去る人を送別することもないし、なんとなく頭でグルグル考えることしかできない。ステップアップとか、暮らし方の問題で別の選択をした人には、何も言うこともない。前向きに自分のことを考えて選択できるのはすごいことだと思う。

ただ、私と同じように心が挫けている人も病気を抱えたまま去ってしまったから、未来の自分をみているような気になって悲しくなってしまった。

 

小さい頃は、というか、学生だった時分は、定年まで働き続けることが当たり前だと思っていた。多少病気はするかもしれないけれど、大病でない限りは月曜から金曜まで規則正しく会社へ通うものだと思っていた。父親がそうであったし、身の回りの大人は、専業主婦でもない限り働いていたから。

今更になって、そんな当たり前が壊された。

世には働けない人や働かない人が身近にいるんだ。

そしてそれは自分に関係ないことでもなく、寧ろ自分の影のようにいつも付き纏う問題なんだ。

 

通院を続けていると嫌でもそういうことは考えるのだけれど、被害妄想的な想像ではなく、意外と現実問題なことにショックを受けている。自分だけは大丈夫なんてことはない、TVで使われるような安易な脅し文句が正に今私の背中に刃を突き立てている。

 

上司が冗談めいた感じで放った「すぐ辞める有能な女性より、無能でも働き続ける男性の方が助かる」という言葉が私にとって呪いのように、ときに救いのように貼り付いている。

あと一歩で崩壊してしまうような自分の闘病生活を見て悲しくもなるし、なんだかんだ窮地に陥ったらどうにかなるんじゃないかという気もする。会社にとって多大な利益を産む人間にはなれないかもしれないけれど、ここを耐えれば歯車のひとつくらいにはなれるんじゃないか。他者のためになることをしたいという気持ちは初めから変わっていない気がする。

 

ちょっと増えた薬と、変わらない調子で、不安な気持ちを抱えたまま、来週からも出社を試みる。休職を許された期限は長いようで短いから、そろそろ踏ん張る元気がほしい。

自分が敵

久々に、自分が過剰に意識しているわけでもない純粋な他人の悪意を感じた。

今更そんな些細なことでガタガタ不満を垂れる年端ではないので、だからどうということもない。嫌われているかもと思い続けるよりは潔く距離を置かれて幸福なのかもしれないなと思う。

 

最近の私は全快することもないまま、心のどこかがいつも冷たくなったままで、必死にそれを無視して生きている。楽しいときでもふと目線が合うと悲しい気持ちになり表現し難い焦燥にかられる。誰が悪いというわけでもなく、わたしの根本にある病原がわたしの幸福を許さないというような風で。

そんな状態だからか、かんがえてもどうしようもない悪意を味が無くなったガムのように美味しくもないのに噛み続ける。

みんながみんな自分を好きになってくれるわけではないと理解しているけれど、嫌われるのはまだ慣れていなくて、自分の憂鬱を取り出すのが容易になってしまうから悲しい。

 

根本は状態に対する怒りなんだと思うけれど、わたしはどうにも怒るのが苦手だから、いつまでも発散することができない悲しみが優位になる。

愚痴を溢す時に、まるで相談相手が悪いことをしたかのように再度怒りを持ってくる人がいるけれど、そういう人に憧れる。怒るってエネルギーが必要だけれど、そのぶん冷めるのも早い。悲しむのは穏やかだからこそずっとずっと心を蝕む。

 

悲しむときによく自尊心という言葉を思い出すけれど、いつか誰かに言われたように自尊心は高いのかもしれない。でもそれは自分で自分を尊ぶというよりも、わたしが好きな人たちが認めてくれている自分を認めるという行為に近い。他者と切り離された自分は価値がなくて、だからこそ急な悪意に容易に傷付いてしまう。

みんなが好きな私は守られるべきだけど、私単体では自分を大切に思う気持ちも生まれない。

自己の評価の際にはどこまでも他者が介在していて、何もない自分自身を認めてあげることは難しい。特別秀でた能力もないのだから。

だからわたしを嫌う人はきっとわたしと同じ気持ちだと思う。内向的で、機転が効かなくて、いつも周りの顔色を伺うような自信の無い姿を見て、なんとなく苛立つんだと思う。気持ちがわかるから、わたしに悪意を向ける人を100%非難できない。

 

他人の悪意を真摯に受け止めながらも、結局は自分の1番の敵は自分だなと思う。

わたしに悪意を剥き出しにする人よりもわたしのことを知っていて、それでもなお自分のことを好きじゃないから。1番の敵は自分なんだと思う。

 

「世界中が敵になっても…」みたいに言うけど、みんながみんな敵になることはないし、味方になることもない。

 

 

 

 

哀れとは

 

※映画「哀れなるものたち」の感想です。ネタバレ要素を含むので見たくない人は注意してください。

 

私が憧れるかっこかわいいお姉さんがストーリーでこの映画の試写会に行ったというのがきっかけで、わたしも見てみたいなと思った。

「感動」、「全世界が泣いた」、「奇跡の物語」と謳われるような映画は脅迫めいた押し付けを感じるから進んでみようとは思えないし、アベンジャーズとかジブリとか多くの人が一般教養かのように話すような作品は普通に馴染めないと落ち込むので敢えて避けてしまうところがある。以前好意を抱いて、相手からも好意を抱かれていた人に誘われて少女漫画原作の映画を見に行ったことがあるけど、話の内容よりも尿意に襲われて初めて上映中に離席したことを強く記憶している。

そんな難儀な性格の私が見ても許されそうだと思うのが、こういう薄暗い内容の作品。サブカル趣味と言われると非常に嫌な気持ちになるけれど、普通の(明るく健常に生きている)人は見なさそうなものが好きというのは事実だと思う。

 

「哀れなるものたち」の良いところは主人公・ベラの眉毛が凛々しいところ。わたしは眉毛に人並みならぬ情熱をかける人間なので、こういった意志ある眉毛は、女性の強さが目に見えて良い。いつか大学の講義の中で「不況なときは女性がなんとかせねばと踏ん張り我を出していくから太眉が流行する」というような話をしていたような気がする。わたしの目論見通り、ベラは風に吹かれず雨にも負けない人間性で自分の正義を持っているひとだった。

育ての親であるゴッド博士は親に実験体として育てられ、親と同様に娘であるベラを実験体として見ていた。それでも親とは違って情が湧いて、ベラの反抗に対して最終的には受け入れの姿勢をとった。

ベラの母親は夫の支配から心を病んでベラを愛することすら叶わず命を絶ったけれど、ベラは母親とは違って誰に支配されることもなく自分で選択して道を切り拓いた。

血の繋がりは消えはしないけれど、人間を形成するのは後天的なものが大きいのかもしれない。人は何かしら貧しいところや欠点があって哀れなるものかもしれないけれど、そうであったとしても、自分を上向かせるのは自分自身なんだ。

そう思わせてくれる作品だった。

 

内容はもちろんだけれど、衣装や世界観も可愛くて、隅々まで見惚れちゃった。

ベラの服がパフスリーブで統一されていたのも良かったし、他の女性たちは伝統的なドレスを着ているのにベラだけシースルーでちょっとヘンテコな衣装だったりするのも面白かった。

思ったことバーーーーーって書いたから支離滅裂だけど、配信開始されたらまたみたいなと思う作品でした!

多分世の中筋肉

 

ずっと買い逃していた、デザート用の小さいスプーンを買った。すぐ無くなるようなお店じゃないからいつでも買えるのにいつも忘れるから、買えたことでちょっと偉いじゃんって自分の背中を押せた気がする。

帰ってきたら一緒に飲みたい緑茶も買った。季節限定のものだから、少し時期はずれになってしまっているかもしれないけれど、きっと鼻に残るゆずの香りがいいねと言ってくれると思う。

大して寂しくない、日々充実している、と思っているものの、実際寂しいのかもしれないな。家にじっといるだけで、帰ってくるまでに買い足したいもの、綺麗にしなきゃいけないものとかをグルグル考えてしまう。考えが止まらなくてグルグル回っていたような日々だったから、最近は強制的に思考を止められて良かったのかもしれない。

 

久しぶりに、学生時代すきだった女性向けの漫画を少し読んだ。こんなに相手のために献身的になれるなんて素敵だなと思いながら、少し心がトキメクのを感じた。日々の活力ってこういう心の動きのことをいうんだろうと閃いた。

今言ったみたいに少女漫画を見てキュンとするのでもいいし、アイドルやアーティストのライブに行ってドキドキするのでも、言ってしまえば試験に向かって日々高まる学力を感じながら軽快に筆を動かすのでも、朝淹れたコーヒーが奇跡的に美味しく淹れられて小さくガッツポーズするのでも。自分の中でパズルのピースがハマったときのような気持ちを作り出せれば、なんかちょっと忙しくても、なんか良い日々のような気がするんじゃないか。

そんなことを思った深夜2時。深夜考えたことは大抵碌でもないけれど、漫画の登場人物が閃いたときに頭上に現れるのは電球だったりするし、そうなると夜が更けていた方が明かりを感じるから、碌でもなくても大発見だと思う。

 

実際物事はうまくいっていないし、堂々と休める週末の気分と謝りながら掴んだ休みの日の気分は雲泥の差だってことはここ1か月弱でしっかり学んだ。

今週は何とかなる!という意識は月曜の朝にかかっていて、そんな熱い思いがわたしを暖かく柔らかい世界に閉じ込めようと重くのしかかる。頑張ろうと思って早すぎるくらい早く温めた布団は、寒さも和らいだ昼頃までわたしの温度を保っている。そんなんじゃダメだ。重い身体が恨めしいけれど、実際そこまで余分な肉が付いていないわたしの手足は平均より軽い身体のはずだ。自分の心に、自分の身体が負けている。学生時代運動部に入っていれば、わたしの人生少しは布団にいる時間が短かったのかもしれない。或いは、読書を辞め、蓮葉になれば…。

 

朝を楽しく迎えるためには、充実した昨日を用意することが大事だと推察している。だから一度躓いてしまったら、起き上がるための相応の筋力が必要だ。

まずはしっかり寝て、食べて、遊ぶ。