期待とか見返りとか

年を重ねる度に誕生日がどんどん素敵なものじゃなくなっていく。

老いの象徴だというわけではなく、単純に、誕生日という言葉に何もときめかなくなってしまった。誕生日は仲いい友達や彼氏とご飯をして、サプライズで名前入りのケーキプレートを用意してもらわなくちゃいけないみたいな、そういう自己顕示のイベントに感じてしょうがなかった。

正直、私だってそういう誕生日に憧れる。微かな「もしかして」を感じてニヤニヤしながら一日を過ごしてみたい。「ゆいちゃんが喜んでくれて良かった!」と言われたい。

 

無論そんな友達も恋人もいなかった。

こんなことを言っておきながら祝われるのは苦手だし、中途半端に要らないものを貰っても喜べる人間ではない。以前当時の彼氏からクリスマスプレゼントに趣味じゃない可愛らしいネックレスを貰った時は、素直な感情を述べたら振られてしまった。恋人でもこうなのだから友達から貰っても喜べるかわからない。

 

16歳の誕生日だったか、親が誕生日ケーキとしてホールのモンブランを買ってきた。

モンブランは好きだけれどまったく栗の季節じゃないのにこれか、と思ってしまって、その時の誕生日もあまり楽しくなかった。

18歳の誕生日は私の好きなステッドラーの筆箱と多機能ペンで、それはすごく嬉しかった。筆箱は皮でできている巻物型のもので、使い始めは皮のにおいが凄く鼻についたけれどそれでも好きで使っていた。多機能ペンのほうは私の好みよりも軽すぎたので手帳に挟んでたまに使うくらいだった。筆箱は3年経とうとしている今でもご活躍である。                                     

19歳の誕生日はA4が何とか入るかなくらいのバッグで、実をいうと色もあまり好きじゃないし浪人生なのにこんな容量のない鞄渡されても使えないんだけど、といった気持ちしかなかった。

 

思えば親からはなんだかんだほぼ毎年何かを貰っているなあと思った。

 

当時付き合ってた彼氏にケイトスペードのオレンジでスカラップな財布を貰ったのはすごく嬉しかったなあ。SNSで可愛いと呟いていたくらいには気になっていて、相手が私の呟きを見て用意してくれていたんだというのがすごく嬉しかった。

 

誕生日が厄介なのはわずかな期待をしてしまうところ。せめて誕生日じゃなくて誕生月というような概念だったら多少は生きやすいのになあと思う。

24時間そわそわしながら生きるのは、それだけで加齢が進む心地がする。どれだけ自分に言い聞かせても、結局は他人からの祝福とかお祝とかそういうものを望んでしまう。無頓着なふりをして本当はとびきりの愛を待ってる。

そんなことで、世界宇宙飛行の日を心待ちにしております。