文章と私とキャラクター

(この文章では私という物理的な存在を私と表現していて、内的な概念の存在をわたしと表記しています。わかりにくいとは思いますが、わかった気になって流し読みしてください。朝の微睡みの中でぼんやり言いたいことが浮かんでくると思います。)

 

私は文章を書くこと全て、わたしを表現することだと思っている。

上っ面だけの文章だと誰にも響かない。文章は私にとって主要な表現方法だと思うから、私は思ったことをなるべくそのまま並べようと努力するし、他人にも共感してもらえるように わかりやすくなるように推敲する。(時と場合によっては気持ちの勢いの方が大事で推敲しきれていないものもある、このブログなんかは結構勢いで書いている)そうすることで私はわたしの輪郭をよりハッキリと掴み取ることができる。win-winの関係になるように私は考えている。

 

私がわたしを表現する140字制限の世界は、私にとって断片ではなくて全てだと思う。

良く見せようなんて思ってはいない。考えたこと思いついたこと感じたことをそのまま並べて私を知ってもらう一手段になればと思っている。物に例えるならば名刺だ。実際に話したりする前にある程度自分はこういう人物だと見せるために発信している。名刺を見てこの程度かと思う人はそれ以上私に関わらないだろうし、そこでブロックなりなんなりしてわたしの全てを拒否する人はその程度の人なんだろうと思う。種の選別。肩書きやら何やらで人を区別する人は非常に下らないと思うので、私の労力を使わずに選別できるこのシステムはなかなか有意義なものだと思う。

この世界はわたしではあるけれど、それを全部端から端まで閲覧したところで私を全部知った気になるのは違うと思う。だけれど私にだって私はよくわからないものだし、ある程度妥協しながら知ってもらうならこの世界のわたしは私の全てでいいと思う。

私のことをみんな理解してくれない、なんて言いたくはないから。だってそれは独りよがりだし傲慢だし我儘でしょう?私だって貴方のことは100パーセント理解できないししようとも思ってない。持論としては、少しくらい謎めいているところがある方が魅力的なのです。そういうこと。

 

私がこういう考えを持つのは思想の自由であるし、誰にも禁止されたり非難される筋合いは無いと思う。

 

ただ問題なのは、私がこの考えを無意識に他人にも適用させていたこと。

私は文章というものを崇拝すべき表現手段だと思うからここまで全てを注ぐけれど、人によっては文章は文字の羅列でしか無いし、文字の羅列に虚言や嘘や誤魔化しなどを混ぜ込んで仮面を作ることに面白みを感じる人がいるのかもしれない。私は人を疑ったりするのが苦手だし、考えるだけ無駄だと思ってしまうから書いてあることすべてを鵜呑みにしてしまうのだけれど、文章は相手の本質ではないかもしれない。(だからこそネット上にネカマが蔓延っているのだろうと思う。)

 

 

何事も決めつけて考えるのは良くないなあという昨日の気付きでした。