たいへんよくできました。

バイト先の飲み会に行かなかった。

社会不適合者だなあとは思うけれど、まだ社会人じゃないし精神病と言っても過言じゃないので自分を甘やかすのに精一杯になっています。皆んなが夜の街に繰り出すのを横目に、私は落ち着いた光の方へ、駅の方へ、歩みを進めます。今日は暖かくて、雪じゃなくて雨が降っていました。

 

私の文章が変というのは、ちょっと前から私も思っていました。

異変に気付いたのは2017年後期の性の授業中でした。丁度授業は女性性と西洋美術、ヌード、女性美術家の話です。授業は面白くて、艶かしすぎるということもなく程よく私と似たような世代に受け入れられる内容だったので、私は真面目に聞いて真面目にノートを取っていました。

今をときめく女性芸術家。それこそ草間彌生が紹介されて、VTRをみてやはり彼女の障害を言葉の端々に感じて、苦しみと引き換えに絵の才能が開花したのかななんて思って。

その次に紹介されたのが松井冬子で。本人自身も美人で、日本画家なのだけど描く絵もなんだか艶かしくて、だけどちょっとグロテスク。その人をVTRで見たときに私は案外普通の人だと思いました。喋るのは上手じゃないけれど、並みというか、そんなに悪くないと感じたの。

それでも教授は「この人も少し話し方が変ですよね」なんて言っていて、私の感性はちょっと違うんだと思いました。松井冬子がダメなら私の喋りも彼女のそれ以下だし、と。

レポートとか課題だとか、気を付ければ普通の文章を書けているとは思う。だけどこういったブログとか、感想用紙等に並べる私の言葉は、意識してないからこそおかしいんだろうと思う。でもこういう書き方をしないと私が思うことをそのまま表現できないと思う。思うことが曖昧で不定形だからこそこういう言い方なのかもしれないけれど。

 

私を否定されるより文章を否定される方が悲しいと気付いた。

否定される私が意図的な断片だからかもしれないけれど、文章を否定されるって今までの人生を全否定されるようなものだなあと感じた。

 

小学生の頃に「気持」を「気持ち」と直されたり、「起立し、歌った」を「起立して、歌った」という風に直されたのを今でも覚えている。

私は模範的な生徒を目指していたので何も言わずに直したけれど、実は微妙にニュアンスが変わってしまったんじゃないかと今でも考えている。

 

このブログでは敬語とか丁寧語とか言い切りとかを適当に使っているけれど、実はこれって気持ちに1番合うものを使って遊んでいるの。それ以上も以下もないの。っていう話。